◆ Mangiare Felice ◆ 食べて飲んで幸せ:旅:壱岐対馬2016
2016-10-05T08:55:15+09:00
lagattina
本を読んでは旅をして、酒を飲み、城を歩く・・・。「旅」と「酒」と「うまいもん」をこよなく愛する名古屋在住catの食べて飲んで幸せな日常。
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国境の島を訪ねて(35)おわりに
http://lagattina.exblog.jp/25919638/
2016-10-05T16:33:00+09:00
2016-10-05T08:55:15+09:00
2016-08-22T16:40:07+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
どこか、違う時代にタイムスリップしたような、そんな、壱岐対馬での旅でした。北海道や沖縄で国境を意識したことはなかったけれど、壱岐対馬では、海の向こうの外国のことが常につきまとう、そんな経験をしました。これが国境なのか・・・。と同時に、我々の国境を席巻する韓国人の姿に、その行く末に不安も感じました。そういうこともあってか、この夏見た映画のさりげない台詞の一言にも、反応。
「総理、対馬沖で不穏な動きがあります。」(映画「シン・ゴジラ」より)「対馬沖」の一言で、日本の国難に乗じた外からの脅威を端的に表わしています。国境を守り、支えるとは・・・そんなことを考えさせられた夏でした。
~ 日程 ~
2016年8月13日(土)~18日(木)
( 1) はじめに
( 2) 18きっぷで博多へ
( 3) フェリーで対馬へ
( 4) 厳原 武家屋敷跡
( 5) 厳原 万松院界隈
( 6) 厳原 お船江跡
( 7) 厳原 上見坂展望台
( 8) 鶏知 住吉神社界隈
( 9) 大船越~万関瀬戸
(10) 小船越
(11) 仁位 和多都美神社~ 烏帽子岳
(12) 芋崎
(13) 対馬の夜
(14) 玉調
(15) 曲と千尋藻 ~宮本常一の風景~
(16) 木坂
(17) 佐護
(18) 佐須奈
(19) 鰐浦
(20) 西泊 ~日本海海戦ゆかりの地を歩く
(21) 佐賀
(22) 島の猫
(23) 豆酘
(24) 浅藻 ~宮本常一の風景~
(25) 壱岐へ
(26) 印通寺界隈
(27) 岳ノ辻
(28) 勝本
(29) 唐神遺跡
(30) 月読神社~遣新羅使の墓
(31) 国分寺跡~古墳群
(32) 芦名~黒崎半島
(33) 博多へ
(34) 名古屋へ
(35) おわりに]]>
国境の島を訪ねて(34)岐路へ
http://lagattina.exblog.jp/25919624/
2016-10-04T16:26:00+09:00
2016-10-04T14:26:33+09:00
2016-08-22T16:33:14+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
6日目(8月18日)
5:24博多 →小倉→下関→新山口→岩国→12:02広島
旅の最終日は、移動日。早朝の博多を出発し、ひたすら列車を乗り継ぎ名古屋へ。18きっぷ旅のお楽しみは、読書と途中下車ご飯。
●八昌
この日のランチは広島でお好み焼き!前回、ひろしまお好み物語 広島駅前ひろばを訪れて、超人気店の「電光石火」以外なら、そう混雑していないことがわかっていたのと、たまたま入った店の印象が良かったので、再訪。お盆明けの平日でしたが、「電光石火」は相変わらずの大行列。待っている時間はないので、広島では名が知られている「八昌」の暖簾を出す店に入ることに。まずは生ビールとハイボールで乾杯して、枝豆、がんす、とんぺい焼き、お好み焼きをいただきました。
お好み焼きなんて、店によって、そうそう味に大差はないだろうとタカをくくっていたのですが、考えを改めます。粉モノは、どこかで何かを間違えてしまうと、大変なことになる・・・ということを再確認。13:50広島 →糸崎→福山→相生→姫路→19:14京都
夜は美味しいものを食べるぞ!と京都で下車。
●門
向かったのは、京都駅近くにありながら、ディープな雰囲気漂う「リド飲食街」にある「門」です。
まずは焼酎の湯割をもらってから、名物のちりとり鍋をいただきます。醤油タレで赤肉(カルビ、ハラミ、上ミノ)を食べる赤盛りと味噌タレでホルモン(ホソ、アカセン、ハート)を食べる白盛をミックスで。甘めのタレがお肉と野菜に絡んでウマイ、ウマイ。焼酎が進みます。
白盛を追加してから、残ったタレでうどんを作ってもらってシメといたしました。美味しかったー。20:31京都 →米原→大垣→22:41名古屋
京都まで来れば、名古屋まで、あともう少し。食べて飲んで寝てばかりの長い長い列車移動を終えます。]]>
国境の島を訪ねて(33)壱岐から博多へ
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2016-10-03T16:24:00+09:00
2016-10-02T23:44:47+09:00
2016-08-22T16:26:51+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
5日目(8月17日)
壱岐での観光を終え、郷ノ原港へ。レンタカーを返却し、港まで送ってもらうのにかかった時間はたった5分。乗船開始時間まで、時間に余裕ができたので、ターミナルビル2階の食堂で、ちょいと一杯することに。壱岐の豆腐をアテに壱岐の焼酎をコピリ。本日のお薦めとあった馬刺しは、やっぱり冷凍モノだった・・・。でも良いのだ。涼しくて落ち着く。
18:30郷原→(九州郵船 ジェットフォイル・ヴィーナス号)→19:40博多
壱岐から博多への移動は、早さと席の確保を優先して、ジェットフォイルを利用することにしました。ジェットフォイルの船室は、シートタイプ。壱岐に別れを告げ、1時間少々の船旅を楽しみます。19:48 博多埠頭 →(西鉄バス)→ 19:56 奥の堂
眠っている間に、揺れを感じる間もなく、船は定刻通り博多埠頭に到着。博多駅方面に向かうバスに乗り、祇園界隈へ向かいます。
●みやもと
博多の夜はもつ鍋に限る!ということで、今回も「みやもと」へ。いつもの席に落ち着き、焼酎の湯割りで一息ついたら、自動的に鍋3人前が出てきました(^^) 何も考えなくても美味しいものがちゃんと食べることができる幸せよ。
たっぷりのモツの旨みとパワーが旅で疲れた頭と身体を癒してくれます。
モツの種類もたーくさん。いつ来ても鮮度が良くて美味しい。ラストオーダーが21時なのですが全く問題ありませんでした。今回も大満足。明日は、名古屋への大移動です。]]>
国境の島を訪ねて(32)芦名~黒崎半島
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2016-10-02T15:31:00+09:00
2016-10-02T01:14:32+09:00
2016-08-22T16:10:28+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
芦辺にある古戦場跡を訪ねました。
●元寇古戦場
壱岐は、国境の島として、再三に渡り、外敵の来襲を受けました。1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、2度の元寇では、多数の島民が犠牲となりました。芦辺港近くの高台にある少弐公園には、弘安の役瀬戸浦古戦場跡の碑があります。公園内には、弘安の役で瀬戸灘に侵入した元軍を迎え撃ち、戦死した少弐資時の墓があります。文永の役に12歳で出陣、弘安の役では19歳の若さで一軍の将として島を守るために戦った資時は、少弐公園の名前の由来となったほか、島の守護神として今も壱岐神社に祀られています。左京鼻沖の海底から引き上げられた船の碇石(いかりいし)
外敵の襲来を知らせる防人の烽火台のレプリカ展望台からは、今は静かな瀬戸浦を見渡すことができます。●黒崎砲台
時間に余裕があったので、壱岐の西部の黒崎半島にある黒崎砲台跡へ。黒崎半島の大部分は戦時中は、軍隊の基地や砲台があったため、立ち入り禁止区域になっていたそうです。砲台の地下トンネルに入ることができます。広い空間は、砲台の土台で、弾薬庫や砲台に弾を送る装置などが置かれていたそうです。売店裏の坂道を上ると砲台の巨大な穴を上から見ることができます。●猿岩
黒崎半島のさらに先端にあるのが猿岩。高さ45mの海蝕崖の玄武岩で、猿に造形が似ている事から猿岩と呼ばれています。壱岐を代表するフォトスポット。
そろそろ博多へ戻るフェリーの時間。壱岐の旅に別れを告げます。]]>
国境の島を訪ねて(31)国分寺跡と古墳群
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2016-10-01T15:30:00+09:00
2016-10-01T17:13:07+09:00
2016-08-22T15:31:31+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
島の中央部の国分寺跡へ。
●国分寺跡
月読神社から西へ約500m、壱岐氏の居宅跡近くの芝地の奥に、国分寺跡があります。天平13年(741年)、聖武天皇は仏教の力を借りて天下泰平を図ろうと、全国に国分寺建立の詔を出します。経済力の弱い壱岐については、壱岐を支配していた壱岐氏の氏寺を島分寺として国分寺の代用とすることが許されました。
跡地には案内板があるだけで、当時の様子がわかるものは何も残っていませんでした。国分寺跡の周辺には、壱岐氏の居宅があったとされ、6世紀末から7世紀初めに築造された巨大な石室をもつ大古墳が集中していることから、壱岐氏に関係する墓ではないかと考えられています。古墳めぐりマップを見ながら、代表的な古墳を訪ねてみました。●双六古墳
壱岐266基ある古墳群の中でとリわけ見事なのは、立派な石室をもつ双六古墳です。6世紀中頃に造られた全長91mの前方後円墳で、前方部の高さが5mであるのに対し、後円部の高さは10.6mもあり、後円部が高く盛り上がっているのが特徴。後円部は直径48m。盛り土は、急斜面を描いていて、お椀を伏せたような形をしています。●掛木古墳
6世紀後半~7世紀前半頃に築造された円墳。周辺が削られていますが、築造当時は、直径30m程の大型古墳で、案内板には、壱岐氏に関係する墓であることを伺わせる記述があります。
玄室には、壱岐唯一の刳り抜き式家形石棺が設置されています。「風土記の丘」に隣接。●百合畑古墳群
23基の小規模な古墳が集中している百合畑古墳群。
緩やかな斜面にある古墳公園では6基を見学することができます。百合畑13号墳は、直径15m高さ5mの円墳。埋葬施設は横穴式の石室百合畑14号墳は、前方後円墳。全長16m、後円部の直径10m、高さ2m。横穴式の石室になっていて後円部の頂上に石室の天井石と思われる平石が露出しています。● 生池城址
16世紀、倭寇だった松浦党の源壹が築城したと伝えられる山城。
城の頂には二重の空堀跡が残っています。●笹塚古墳
笹塚古墳は、古墳時代末期(6世紀末~7世紀初め)に造られた、壱岐で3番目に大きな円墳。
円盤状の台座の上に直径40mの墳丘を築いた二重構造となっていますが、鬱蒼とした檜林に覆われ、その全景を見ることはできません。石室からは、金銅製の馬具やガラス玉が出土し、当時特別な地位にあった人の墓と考えられています。壱岐の古墳群は、海上交易によって栄えた壱岐の歴史を今に伝えています。]]>
国境の島を訪ねて(30)月読神社~遣新羅使の墓
http://lagattina.exblog.jp/25996003/
2016-09-30T09:39:00+09:00
2016-09-30T00:11:02+09:00
2016-09-20T09:40:15+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
古代壱岐を支配した豪族・壱岐氏は、占部氏の出で、月読尊(つきよみのみこと)と探い関わりがあります。
●月読神社
壱岐の芦辺に月読神の本家である壱岐の月読神社があります。祭神である月読尊は、卜占によって航海の海上案内をしていた壱岐氏が祀った海の神様です。日本書紀によれば、朝鮮半島の任那に渡った阿閉臣事代(あえのことしろ)が、壱岐の月読神社で月読尊の神託を受け、天皇に奏上したところ、天皇は、壱岐県主(いきのあがたぬし)・押見宿禰(おみしのすくね)を京に呼び、京の嵐山に壱岐の月神を分霊し、祀らせたそうです。以後、壱岐氏の遠祖である押見宿禰の子孫は、卜部氏を称し、京都の月読神社の神職を代々つとめています。●遣新羅使・雪連宅満の墓
壱岐から京に渡った押見宿禰の子孫にあたる雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓が、印通寺港から程近い石田野にあります。
雪連宅満は、聖武天皇が天平8(736)年に派遣した遣新羅使の一員でしたが、朝鮮に辿り着く前に壱岐で病死。父祖の島で眠ることとなりました。案内標識に従って、国道から枝道に入り、緩やかな勾配を上ったあたりで車を停め木立を抜けると空が大きく開け、その先に、小さな杜があります。蔦に覆われた盛土に佇む小さな石塔が、雪連宅満の墓です。1280年もの時を経て残り、現在も供養が行われていることに大きな驚きを感じます。 司馬遼太郎は、雪連宅満が、卜占を扱う壱岐氏の家系であったことから、安全な航海をするために卜占によって船出の吉凶を占う卜占官として遣新羅使の一行に加わっていたことを明かし、その縁につながって、島の人が丁重に墳土を築いたのであろうと述べています。この遣新羅使一行は、新羅で国王に面会することなく、追い返されてしまい、詠んだ歌だけが残っています。
この遣新羅使は日本の政治史にはどういう貢献もしなかったが、大阪湾を出て以来、船泊のつどおそらく全員が歌を詠み、そのうちの秀歌を記録し、保存し、ついに帰還まで百四十五首という大量の秀歌を「万葉集」に入れたということで、文学史上の大きな業績をのこしたことになる。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)
万葉集で雪連宅満が、詠んだ歌です。
大君の命かしこみ 大船の 行きのまにまに やどりするかも
雪連宅満が亡くなったときに、同僚が詠んだ歌です。
石田野に宿りするきみ、いえびとの いづらとわれを、問はばいかに言わむ]]>
国境の島を訪ねて(29)唐神遺跡
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2016-09-29T15:26:00+09:00
2016-09-28T23:40:29+09:00
2016-08-22T15:30:05+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
勝本から南下して、壱岐の中央よりやや西側にある唐神遺跡へ。●唐神遺跡
唐神遺跡は弥生中期から後期にかけての集落あとで、
標高80m前後の丘陵上に集落を形成しているのが特徴。地形は高台になっており、小規模な隠国のようになっている。地形の高低が錯綜しているため、ひどく高い水田があるかと思えば、隣の一枚の田は二メートルも下になっている。この森そのものが-周辺の田畑をふくめて-古代の集落の跡であった。集落跡をふるくから神域としてあがめてきたというのは、いかにも古神道の国である壱岐らしくていい。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)森の奥に小さな石造りの祠があり、正面に「加良香美」と刻まれています。祠を囲む一区画は整地され、今も地元の人によって守られています。唐神遺跡をあとにします。]]>
国境の島を訪ねて(28)勝本
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2016-09-28T15:18:00+09:00
2016-09-28T10:40:10+09:00
2016-08-22T15:26:19+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
壱岐の北端の勝本へやってきました。
●勝本城跡
勝本城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、1591年に平戸藩主の松浦鎮信が築城。大手門の枡形の石垣が往時を偲ばせます。一部が公園になっていて展望台からは勝本の入江を一望できます。ようやく壱岐の北端の勝本の浦に達した。そのむこうはもはや対馬海峡である。勝本の入江を南から太い腕をのばしたようにして抱いている山にのぼると、木造船時代、ここが絶好の錨地であったことがわかる。港口の風よけとして、ビスケットをくだいたようにいくつもの島が散在している。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)●河合曽良のお墓
「奥の細道」の旅にも随行した松尾芭蕉の弟子・河合曽良の墓が、勝本城下の能満寺にあります。墓は、河合曽良の最期を看取った中藤家の墓地の一角にひっそりと立っています。墓地を訪れた司馬遼太郎は「曽良そのひとがそこに居るように思われた」と述べています。界隈には、曽良ゆかりの史跡が点在。城山公園の一角には、「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」の句碑が建ち、その傍らには、曾良が生まれた諏訪から贈られたという諏訪大社の御柱が建っています。
●神皇寺跡
勝本を訪れた司馬遼太郎は、朝鮮通信使を接待した神皇寺跡にも立ち寄っています。この赤い瓦屋根の小さなお堂が阿弥陀堂で、朝鮮通信使迎接所の神皇寺跡といわれています。ここが神皇寺跡ですかと思わず声を上げたほどに景観は「海遊録」の記述とはちがっている。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)
●聖母宮
聖母宮は、奈良時代に創建。1200年以上の歴史があり、「壱岐国ニの宮」と呼ばれていました。祭神は神功皇后・仲哀天皇・応神天皇。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、壱岐は前線基地となりました。このとき、加藤清正が表門と石垣を、裏門については鍋島直茂が寄進しています。勝本の漁港に沿ってぷらぷら散歩。路地にもぐり込むと、道の両側に二階建ての木造住宅が並び、涼み台でおしゃべりを楽しむ地元のご婦人たちがいて、どこか懐かしくのんびりとした雰囲気が漂っています。
海辺から家並を一重ぶんだけ町なかに入ると、道は江戸期の路幅のままになってしまう。両側の町屋はすべて古風で、ときに風霜にさび磨かれた格子、木目の露れをみても百年は経ったかと思われる涼み台、宿場の旅籠のような二階とその木製手すり、あるいはペンキ塗り和製木造洋館の床屋と家々がならんでいる。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)●よしもと食堂
この日は、勝本の路地裏の食堂でランチタイム。
お刺身定食をいただきました。]]>
国境の島を訪ねて(27)岳ノ辻
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2016-09-27T15:13:00+09:00
2016-09-27T08:13:25+09:00
2016-08-22T15:18:15+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
壱岐はどこを歩いても風が野と段丘と林を吹きわたっている。(司馬遼太郎著『街道をゆく 壱岐対馬のみち』より)対馬が『魏志』の東夷倭人伝でいうところの「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し」通りだったのに対し、壱岐は、どこまでも平坦で一面に田畑が広がっています。続いては、壱岐を一望できる壱岐一番の高台「岳の辻」へ。
●烽火台の復元
岳の辻をのぼりきったところに烽火台のレプリカがありました。白村江の戦いの翌年に、敵の来襲をいち早く大宰府に急報するために設置されたました。
おそらく常時十人の防人がその番をし、規定どうり、十日に一日休日をとり、三年の徴兵期間中、一日も故郷を想わぬ日がなかったに相違ない。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)●岳ノ辻
司馬遼太郎が「粗末さがかえって自然をそこなうことをすくなくしていた」と述べた展望台。眼下に広がる郷ノ浦の港と町並み。壱岐全土をぐるっと一望できます。海にかこまれたこのわかめをひろげたような形の島が、海にむかって押し出すように、緑がひろがっている。
一面の緑に無数の濃い斑点があり、これはすべて森だった。森の多さにおどろいた。上代はその森ごとに神がいた。いまもこの島ほど古社の多い土地は全国でもめずらしいのではないか。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)東側の展望台には標高213mの標識と明治22年建「緯度測定標」があります。見通しが良ければ、北方の海上遙かに対馬の島影が南には、佐賀の東松浦半島の山並みを望むことができるそうです。]]>
国境の島を訪ねて(26)印通寺港界隈
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2016-09-26T15:05:00+09:00
2016-09-26T08:25:37+09:00
2016-08-22T15:13:23+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
壱岐は、玄海灘に浮かぶ、東西15㎞、南北17㎞の小さな島。この日は朝から晴天。司馬遼太郎が『街道をゆく 壱岐・対馬の道』の取材旅行で辿った道をレンタカーでめぐることにしました。●印通寺港
まずは、かつて遣新羅使で栄えた印通寺港へ。小さな湾が、口を南にひらいている。湾口に妻ヶ島という、湾の面積よりも大きな島が風防ぎのためにうずくまっているから、格好の投錨地だったのだろう。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)●唐人神
フェリー乗り場近くにある唐人神のある森を訪ねてみました。港の東端が小さな丘になっていて、叢林の生えるままになっている。登ってみると十五、六歩で、上に達した。そこに笹や雑木にかこまれて、いかにも土俗神といったふうな粗末な石祠がある。「唐人神」と、たてふだが出ている。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)
唐人神は流れ着いた唐人の下半身を神として祀ったもの。その昔、壱岐では、異国から来たものはすべて「神」と考えられていたため、唐人の下半身も、祟りがないように祀って、神として扱ったものと見られています。●津の宮
奈良時代の印通寺浦は、海岸線がもっと内陸部に引っ込んでいたそうで、司馬遼太郎は『街道をゆく』の旅の途中、かつての海岸線だった場所に立寄っています。
唐人神の浜辺を去ってしばらくゆくと、街道ぞいに家並みが密集したあたりに出た。 ・・・家並の間に鎮守のような杜が洞のような暗がりを作っていて、ここが古駅であると書かれている。「延喜式」にある石田郷の海駅はここにあり、国立の駅舎もあったらしい。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)司馬の言葉を頼りに街道を進むと、「津の宮」という神社が、港近くの住宅地にひっそりと佇んでいました。
神社内や周囲を探してみましたが、かつて古駅だったことを標す立て札らしきものを見つけることは出来ませんでした。神社の名前に船の碇泊地を示す「津」がついており、地形的にも、かつてはこのあたりが海岸線だったことを伺わせます。]]>
国境の島を訪ねて(25)壱岐へ
http://lagattina.exblog.jp/25919383/
2016-09-25T21:15:00+09:00
2016-09-25T21:15:44+09:00
2016-08-22T15:00:33+09:00
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旅:壱岐対馬2016
4日目(8月16日)
15:35 厳原 →(九州郵船 フェリーちくし)→ 17:40 郷ノ浦
対馬から壱岐へ移動します。レンタカーを返却し、出航の1時間以上前にフェリーターミナルに向かったのですが、物凄い人!!!!慌てて乗船手続きをして、長い長い列の後ろに並びます。バイクや自転車を持込での乗船はすでに出来なくなっていて、隣の窓口では大喧嘩。どうやら、車両の乗船については事前予約が出来るけれど、自転車やバイクは手荷物扱いとかで事前予約は出来ず、当日の乗船受付開始から早いもの順のよう。どのくらいの台数を受け入れるのかわからないけれど、この日は、受付開始から15分で受入台数がいっぱいになったみたいです。翌日の船でバイクだけ送るとか、送らないとか・・・。揉めに揉めていました。大変だ。壱岐までは、自由の二等船室にしたのですが、なんとか2人が横になれるスペースは確保したものの・・・という感じ。ころころトランクでバリげードを築く女子会グループや、毛布を広げて場所取りをする家族連れとかがいたりして、軽装の夫婦やカップルは、うっかりトイレにも行けない・・・という感じ。往路は指定にして良かった・・・としみじみ。厳原港がどんどん小さくなる。さようなら対馬!●壱岐
思ったより船は揺れなくて(熟睡していたからわからなかっただけかも)2時間程で、壱岐の郷ノ原港に入稿します。ホテルにチェックイン後、予約していた居酒屋に向かったのですが、暖簾が出ていません。店舗が移転したのかも?と思い、お電話したら繋がって、なんでも「お盆中、頑張って営業したのでお休みすることにした」そうです。・・・とほほほ。今回の旅、こんなのばっかりです。島の人はのんびりしていますね。予約の入っていた日に営業できなくなったら、連絡するとか、そういう発想はないのでしょうか。紹介してもらった店の中で、営業していた店に飛び込みで入ることに。幸いカウンター席が空いていたので、こちらでお食事させていただくことにしました。まずは日本酒をもらって、刺身を盛り合わせをオーダー。お寿司屋さんなのでお値段はそれなりにしましたが、一切れ一切れの刺身は、抜群に旨い。
続いてあらだきを注文。あらといっても立派なクエのお頭。自家製のイカの酒盗は、酒のアテにぴったり。
客のほとんどがガイドブックを手にした観光客という、ウニ丼が有名なお店でしたが、扱う魚の質は良く、明朗会計で良心的。ついついお酒が進んでしまいました。
+++++マンホールチェック++++++
郷ノ浦港からホテルに向かう途中に見つけたマンホールには、壱岐の伝統工芸品「鬼凧(おんだこ)」が描かれています。
壱岐は「鬼が島」伝説があり、鬼凧には、鬼退治をする鎧武者の勇士が描かれているそうです。このインパクトのある構図は、撥ねた鬼の首が鎧武者の兜に噛み付く瞬間なのだとか・・・。なかなか凄いですね。
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国境の島を訪ねて(24)浅藻
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2016-09-24T00:01:00+09:00
2016-09-23T22:20:37+09:00
2016-08-22T13:25:50+09:00
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旅:壱岐対馬2016
民俗学者の宮本常一が『忘れられた日本人』で描いた漁村の風景を訪ねて、対馬の南端にある「浅藻(あざも)」へ。
●浅藻
藻集は、北に天道信仰の聖地である竜良山が聳える、永らく無人の浦で、明治9年(1877)頃より山口県大島郡久賀町(現在は大島郡周防大島町久賀)の漁民が移り住んで開拓した集落。その経緯は、宮本常一の『忘れられた日本人』に登場する梶田富五郎翁の談話に詳しい。元来浅藻ちうところは天道法師の森の中で、人の住んではならんことになっておった。このあたりではそういうところをシゲというてなァ、あそこは天道シゲじゃけに住んではならん、けがれるようなことをしてはならんと、土地の人はずいぶんおそれておった。(宮本常一『忘れられた日本人』より)久賀の漁民は、浅藻の親村である豆酘の舟と漁師を海難救助したお礼として定住を許されますが、船着場の確保には苦労したことが梶田富五郎翁の言葉で描かれています。当時のことを地元の人は良く覚えていて「山口県の人たちが石を取り除いて港を開いた話は、高校の教科書にも載っていますよ」集落を歩いているときに出会った女性が教えてくれました。●八丁郭
浅藻の集落の奥の竜良山の山中に、対馬独自の天道信仰の聖地のひとつ「八丁角(郭)」があります。八丁角は、「オソロシドコロ」とも呼ばれる天道信仰の聖域(天道シゲ)で、かつては侵入不可の土地でした。
鳥居を抜けて、原生林を進み小川を渡って、幽暗の気が漂う木々の間を奥へ奥へと歩くこと5分小さな2つの鳥居の向こうに八丁角と呼ばれるピラミッド状の石積みの塔が現われました。天道山の南側の麓、千古の神秘をたたえた森の中に、緑の苔むした石積みの塔がある。段状のピラミッド型になったこの塔を、天道法師の墓と伝える俗説もあるが、これは墓所ではない。典型的な磐境の祭壇である。(永留久恵『対馬古跡探訪』より)裾は5m四方で、高さは3m以上あるでしょうか。対馬の各地で見たどのヤクマより大きく、そのただならぬ雰囲気に圧倒されました。お参りした後、言い伝えに従って、石積みに背中を見せないように、後ずさりをしながら鳥居まで戻りました。とても神秘的な空間で、この3日間の中で一番印象に残りました。
対馬での2日半の滞在を終え、壱岐へと向かいます。]]>
国境の島を訪ねて(23)豆酘
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2016-09-23T13:23:00+09:00
2016-09-23T01:24:37+09:00
2016-08-22T13:24:43+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
4日目(8月16日)
対馬最終日。この日は島の南端の豆酘へ。民宿のご主人の言葉通り、佐賀から車で50分で到着。
●豆酘岬
豆酘は対馬の南西端にある町で、その半島の先端に豆酘崎があります。朝鮮海峡と対馬海峡の境界にあたり、先の海には岩礁が連なっています。対馬一の漁場。「豆酘は言葉が違うんですよ。何言ってるのか分からない」。
青い海を見ながら、対馬で2泊目に利用した民宿のご主人の言葉を思い出します。幸か不幸か豆酘で会った人の言葉が理解できない・・というような事態には遭遇しませんでしたが、永留久恵も豆酘の独自性を指摘しています。
現在の対馬人は、豆酘の言葉を変わっているという。しかしこれは言う人たちが変わったのであり、豆酘が変わっていないのだ。このように、豆酘が長く古いものを温存したのは、竜良の連山にさえぎられて他との交流が少なく、島の南端に独自の王国を形成したことが考えられる。(永留久恵『対馬古跡探訪』より)●赤米神田
天道信仰の聖地・多久頭魂神社に向かう途中、「赤米神田」という標識が目にとまりました。青々とした田んぼの一角に、縄を張り、紙垂が下がったエリアがありました。ここのようです。豆酘では、古代米「赤米」を神田で栽培し、穀霊を神として祀る神事を受け継いでいます。田植えなど赤米にまつわる年間10回の行事はすべて神事で、厳格なしきたりを守って執り行われているそうです。赤米神田脇の細いあぜ道を通り抜けると、唐突に、多久頭魂神社の一の鳥居が現れます。
●多久頭魂神社
多久頭魂神社は、対馬南部・豆酘の龍良山をご神体とする天道信仰の古社。佐護の天神多久頭魂神社と並んで、対馬独自の天道信仰の南の聖地として崇められてきました。創始は神武天皇元年とされています。中世は神仏習合により、観音菩薩を本尊とした豆酘御寺として栄えました。一の鳥居をくぐってすぐ左手にある鐘楼は旧豆酘御寺の鐘楼で、神仏習合時代の遺産。鐘楼に懸かる梵鐘は、中世前半に対馬を支配した阿比留氏が奉懸したもので、平安時代の寛弘5年(1008)に鋳造したものを仁平3年に改鋳し、さらに康永3年にまた改鋳したことが銘文の中に刻まれています。阿比留宿弥良家の名も刻まれていているそうなのですが・・・判読できず。残念。参道の両脇は、鬱蒼とした杉木立で覆われ、神聖で荘厳な雰囲気が漂っています。参道を奥へ進むと鳥居と山門があり、その正面に拝殿があります。多久頭魂神社の神は山そのものであり、本来社殿はないのですが、明治の神仏分離の際に、旧豆酘御寺の観音堂が拝殿となったそうです。拝殿を正面から。拝殿裏にはクスノキの巨木が聳えています。樹高30mの樹齢650年ともいわれるクスノキは、当社のご神木。
境内には、神住居神社延喜式内社である高御魂神社も祭られています。右手の参道を進むと観音堂その脇に地蔵堂。静謐な杜の中は、蚊が多く、夏場に訪れる際は、虫除けと虫刺され薬が必須アイテムです。]]>
国境の島を訪ねて(22)島の猫
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2016-09-22T15:00:00+09:00
2016-09-23T01:24:02+09:00
2016-08-22T15:01:50+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
厳原に到着した朝、最初に出会ったニャンコさん
バーが立ち並ぶ路地裏で悠然と道路の真ん中で毛づくろいをしていたニャンコさん、フリーダムだけれどとっても美人さん爪とぎに余念がない姉妹?八幡さまの駐車場の塀にいたねこさんカメラを持って近づいたらモデルさんのようにポーズをとってくれました
夜の厳原で迷子の子猫港で漁から帰った船が水揚げしている様子を遠巻きに見つめるネコさん。お盆の期間は漁がお休みだったので、3日ぶりのご馳走にありつこうと、虎視眈々。漁師の家の脇に転がっている浮き球で遊ぶネコのんびりとした港の朝。丸々としたツシマヤマネコの銅像国道沿いで何度も見かけた「ツシマヤマネコ飛び出し注意!!」 の標識。ツシマネコには会えなかったけれど対州馬には会うことが出来ました。
場所は、「あそうベイパーク」小柄で人懐っこくて、可愛い。]]>
国境の島を訪ねて(21)佐賀の宿
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2016-09-21T13:22:00+09:00
2016-09-21T13:15:03+09:00
2016-08-22T13:23:01+09:00
lagattina
旅:壱岐対馬2016
対馬2日目の宿は、対馬東岸の佐賀浦の入江にある民宿・たけだ家です。狭い路地を入ったところに建物があり、2階が客室。この日は、貸しきり状態で、宿に着いたら、お風呂を独占できました。ゆっくり湯に浸かって、汗を流します。こちらはご主人1人で営む民宿で、夕食は全てご主人の手作り。1階奥の座敷でいただきます。お膳に並んでいるのは、鯛の塩焼き、イカの刺身、あら汁、イカの煮付け、かぼちゃのそぼろ煮、手羽元のから揚げ・・・と盛りだくさん。
お酒は、持込が基本。昨日、河内酒造で購入した日本酒と焼酎のうち、焼酎を開けることにしました。飲み方はロックで。(氷は用意してもらえます)
ご主人は対馬の歴史や、昨今の対馬事情に詳しく、あれやこれやと教えていただきました。対馬では、生まれてくる人の数より、亡くなっていく人の数の方が200人も多いこと。主な産業のひとつが観光業を支えるのは、韓国からの観光客で、その数は年間22万人を超え、観光客数全体の4割以上を占めること。上対馬では、やはり、携帯電話が韓国の電波を拾ってしまうことが多く、上対馬に行った時は、携帯電話を使わないようにしていること。国境の離島が抱える問題に思わず、うなってしまいました。明日から漁が始まるから、朝早く起きたら、魚が揚がるところが見られるかもしれないと教えてくれたので、翌朝6時に起きることに。ちょうど漁を終えた船が、戻ってくるところでした。
水揚げされたのは
イカ透明感があってピンク色をしていて綺麗これは何の魚かな遠くでネコさんが、おこぼれを狙っています。2日ぶりの漁とあって、ネコさんお腹をすかせているようでした。小魚をもらうと素早く加えて走り去っていきました。ネコにお盆休みなんてわからないからねぇ・・・と漁師のおじさん。・・・それもそうですね。朝7時を告げる町内放送
流れがたので、宿へ戻って朝食を。
これから一気に島の南端・豆酘へ移動します。 ]]>
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