◆ Mangiare Felice ◆ 食べて飲んで幸せ:旅:京都 2008
2010-06-13T18:31:21+09:00
lagattina
本を読んでは旅をして、酒を飲み、城を歩く・・・。「旅」と「酒」と「うまいもん」をこよなく愛する名古屋在住catの食べて飲んで幸せな日常。
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会津残照in京都(6)終わりに
http://lagattina.exblog.jp/14579344/
2008-10-31T18:24:00+09:00
2010-06-13T18:31:01+09:00
2010-06-13T18:31:01+09:00
lagattina
旅:京都 2008
(1) はじめに
(2) 山元麺蔵で昼ごはん
(3) 金戒光明寺へ
(4) 三本木屋敷~蛤御門を歩く
(5) 京都守護職上屋敷跡を訪ねる
(6) 終わりに]]>
会津残照in京都(5)京都守護職
http://lagattina.exblog.jp/10014932/
2008-10-30T00:11:00+09:00
2010-06-13T18:31:21+09:00
2008-10-27T17:16:41+09:00
lagattina
旅:京都 2008
京都の治安維持を命じられた会津藩主・松平容保は、京の都の数箇所に、広大な屋敷を構えました。京都御所の西に作られたのが、京都守護職上屋敷です。
跡地には、その後、京都府庁が建てられました。京都府庁の正門入ってすぐ右手の植え込みに、ここが「京都守護職上屋敷跡」であることを示す石碑が、ひっそりと建っています。
◆京都守護職屋敷 門
京都守護職の屋敷に建っていた門は、京都市内の2箇所に移築されています。
まずは、平安神宮の北西側にある駐車場と武道館の境界に移築された門。ズラリと並んだ観光バスの陰に隠れるように建っています。武道館側からの方が見やすいのですが、こちらは門の裏側。うまいこといきません。瓦丸紋に菊の御紋が使われているのが、気になります。
こちらは、二条城の北東にある京都国際ホテルの駐車場に移築された方の門です。ホテルの正面玄関には、ここの敷地が、福井藩邸の跡地であると書いた札があるのですが、肝心の門については、何の案内もなく、東側の駐車場にポツンと建っているだけ。瓦丸紋は、普通に、左三巴だったので、思わず、駐車場側の出入り口にいたベルボーイのお兄さんに確認してしまいました。
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会津残照in京都(4)三本木屋敷~蛤御門
http://lagattina.exblog.jp/10018523/
2008-10-29T01:01:00+09:00
2010-01-05T12:09:36+09:00
2008-10-28T01:03:29+09:00
lagattina
旅:京都 2008
京都守護職となった容保に随行したのは、武官だけではありません。朝廷・幕府・諸藩関係者との折衝や情報収集を行う公用人、いわゆる文官も、ともに上洛しました。公用方の拠点となったのは、京都御所のすぐ東側にある三本木。東は鴨川、西は河原町通りの間で、北は出水通り、南は丸田町通りに囲まれた一画。彼らの住まいは、「三本木屋敷」と呼ばれました。
三本木の地名は今もあり、古くからの住宅が残る静かな住宅地となっています。幕末の志士たちが、この界隈を闊歩したのですね。当時の面影こそありませんが、感慨深く散策。
◆蛤御門蛤御門は、京都御所の周囲を固める九つの門の一つ。京都御所の西側にあります。この門の周辺で、尊皇攘夷を主張する長州藩と、公武合体派の会津藩や薩摩藩による幕府の連合軍との間で、激しい戦が繰り広げられました。これが、蛤御門の変。門の梁に残る弾痕が、かつてここが戦いの舞台だったことを、今に伝えています。 ]]>
会津残照in京都(3)金戒光明寺[岡崎/京都]
http://lagattina.exblog.jp/10014905/
2008-10-28T00:56:00+09:00
2010-01-05T12:09:15+09:00
2008-10-27T17:12:05+09:00
lagattina
旅:京都 2008
最初に訪れたのは、浄土宗大本山で、地元では「黒谷さん」と呼ばれている金戒光明寺です。ここが、京都守護職に着任した会津藩主・松平容保が、本陣を置き、会津藩士たちが駐屯した場所です。岡崎通を北に進み、案内板に従ってT字路を右折すると、高麗門が見えてきます。お寺の門というより、お城の門のような佇まい。門の正面左手には「会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣」の看板が掲げられ、右手には「会津藩殉難者墓所」と刻んだ石碑が立っています。あぁ、ここに、本陣があったんだ・・と実感が湧いてきます。
御影堂
高麗門から敷地内に入り、長い石畳の参道を進むと左手の小高い丘の上に見事な山門が現れます。急な石段を登り切って、山門をくぐると、境内があり、正面に御影堂が見えてきます。
熊谷直実 鎧掛けの松
幕末の会津とは、関係ありませんが、光明寺は、歌舞伎の「熊谷陣屋」でおなじみの、熊谷次郎直実が出家したお寺だそうです。境内の御影堂の脇には、直実が出家をする際に洗った鎧を掛けたという言い伝えのある「鎧かけの松」がありました。
方丈
京都守護職本陣の中枢となった場所。容保が新選組と謁見したのも、この中の一室なのだそうです。普段は公開されていないのが、残念!
清和殿
ここが、会津藩士1000人の住まいとなった場所。広いです。容保が、京都守護職を務めた5年の間、この場所が会津藩の本陣となり、藩士たちが駐屯しました。文殊塔(三重塔)
阿弥陀堂の裏手にあたる東側の山の斜面は墓地となっています。墓地の中の石段を登った先の見晴らしの良い高台からは、晴れていれば、京都市内を一望できるそうです。まさに自然の要塞とも言える立地。ここに立つと、徳川幕府が、西の知恩院、東の金戒光明寺を有事があった際に軍隊を配置する城郭として使えるようにしていたという説にも、なるほど・・という感じがします。
この高台には、2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うために建立した文殊塔という三重塔が建っています。秀忠といえば、会津松平家の始まりに関ったご当人。会津藩の藩祖・保科正之は、秀忠と乳母の侍女に間に生まれた子供です。容保がどうしてここに本陣を置いたのか・・。秀忠にゆかりのある場所であったことは、1000人の藩士が収容でき、京都御所や二条城に近く、防衛しやすい・・・という立地条件と合わせて、大きな決め手の1つになったのではないか・・・と思ってしまいます。
会津藩墓所
光明寺の敷地内にある広い墓地の、1番奥の、北のはずれに、ひっそりと「会津藩殉難者墓地」と刻まれた石碑が建っています。ここに、故郷会津に戻ることなく、この地で果てた会津藩士たちが埋葬されています。
京都を守るために会津からやってきた藩士達は、時代の大きなうねりの中で賊軍扱いされ、鳥羽伏見の戦いで敗れると京都を追放されます。新政府軍は、戦死した会津藩士の遺体の動かしたり埋葬することを禁じたため、遺体はそのまま放置されていたそうですが、見かねた人の手によって、密かに遺体が収容され、ここに埋葬されました。
墓碑の裏に刻まれた年号を見ると、墓碑が建てられたのは、明治も後期に入ってから。それまでの間は、密かに供養されていたのでしょう。今もここを供養に訪れる人が絶えないのか、鶴ヶ城の写真を供えた墓前は、綺麗に掃き清められ、蝋燭には火が点り、綺麗なユリの花が供えられていました。
墓碑の脇に、容保の孫娘で、秩父宮妃殿下となられた勢津子さまによる松の木の植樹と記念碑がありました。勢津子さまは、京都に眠る会津藩士たちの元も訪ねられていたのですね。
容保の詠った短歌が残されています。
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こえさへきよし 窓の呉竹
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会津残照in京都(2)讃岐うどん@山元麺蔵[平安神宮/京都]
http://lagattina.exblog.jp/10014648/
2008-10-27T00:59:00+09:00
2008-10-30T00:48:36+09:00
2008-10-27T16:22:35+09:00
lagattina
旅:京都 2008
◆手打ちうどん 山元麺蔵
平安神宮の東の岡崎通りは、評判のうどんや、蕎麦屋が点在した、比較的静かな通り。訪れたのは、讃岐うどん仲間お薦めの「手打ちうどん 山元麺蔵」です。町家を改造したようなお洒落な佇まい。入るとお店の方が笑顔で出迎え、席に案内してくれます。右手にテーブル席が3つあり、左奥がカウンター席になっています。
●牛肉土牛蒡つけ麺
こちらは相棒のチョイス。艶やかで美しい麺線のおうどんが、どっしりした陶器の皿に盛られて出てきます。「麺が長いので、良かったら使って下さい」と添えてあるのが麺切り鋏。確かに麺は少し長め。薄切りの牛肉と牛蒡がたっぷり入ったつけ汁は、牛の旨みと牛蒡の甘みが溶け込んでいて、実にいいお味。食後にサービスで出される鰹出汁をつけ汁の残りに加えていただくと、牛蒡の風味がぐぐっと引き立ちます。
●旬野菜天ぷらざる
舞茸、かぼちゃ、さつまいも、にんじん、赤ピーマン、ナス、オクラ、大葉の天ぷらが添えてあります。うわうわ盛りだくさん。天ぷらは揚げたてのサックサク。うどん屋の天ぷらとしてはレベル高し。麺は、舌触りが滑らかで、弾力があり、たおやかなコシの女麺。鰹出汁がしっかりした少し甘めのつけ汁とのバランスも◎
麺は飛び抜け感はないけれど、安心して美味しくいただけます。出し方、メニュー、オペレーション、内装、接客・・・それぞれに光るものがあり、これらが上手く調和して、お店全体の雰囲気を作り上げているという印象。観光地にありながら、CPは高く、気持ち良くお食事ができます。雨足はどんどん強くなるけれど、気分は、すっかり晴れやかに(^^) 人気店とあって11時半を過ぎた頃には、ほぼ満席状態。「まずは昼食」と決断しなかったら、雨の中、ランチ難民となって彷徨うか、雨の中店の外で並ぶハメになったかも(汗)お腹がいっぱいになったところで、散策開始!です。
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●手打ちうどん 山元麺蔵(讃岐うどん)
住 所:京都市左京区岡崎南御所町34
電 話:075-751-0677
場 所:平安神宮東の岡崎通り沿い。
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会津残照in京都(1)はじめに
http://lagattina.exblog.jp/10014185/
2008-10-26T23:33:00+09:00
2010-01-05T12:08:51+09:00
2008-10-27T14:46:50+09:00
lagattina
旅:京都 2008
幕末の動乱期、会津藩主・松平容保は、京都守護職として、京の都で過ごしています。京都守護職は、過激な尊皇攘夷派や不逞浪士などの剣客で荒れ狂う京都の治安を維持するために設立された幕府の役職。「徳川家への忠誠」という会津藩祖の保科正之の定めた家訓を守り、容保が悲愴な決意で、この役目を引き受けたことが、会津藩の悲劇への幕明けとなったとされています。幕末の会津のことを調べているうちに、京都に残る史跡にも訪ねてみたくなりました。
冷たい雨の降りしきる雨の京都での、散策となりました。
~ 訪れた場所 ~
*京都守護職の本陣を置き、会津藩士が駐在した「金戒光明寺」
*会津藩の公用人が駐在した「三本木屋敷」跡地
*禁門の変の激戦地「蛤御門」
*京都守護職屋敷の跡地、門の移築先
~ お食事 ~
*手打ちうどん山元麺蔵@平安神宮
~ 参考文献 ~
*落下は枝に還らずとも(中村彰彦著)]]>
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