7月19日(土)つづき
◆甲賀町口門跡
田季野からすぐ出た甲賀町通りは、鶴ヶ城の北門につながる通り。甲賀町口門は、城下で十六あった郭門中、唯一現存する石垣です。この石垣を堺に、内側が武家屋敷敷、外側は町民の住居となっていました。戊辰戦争の際は、滝沢峠方面から押し寄せた西軍(新政府軍)と東軍(会津軍)との間で、激しい戦闘が繰り広げられ、ここを制した西軍は、甲賀町通りに大砲を設置。ここから一気に城内への砲撃が始まります。
◆鶴ヶ城
そして、やってきました、鶴ヶ城。戊辰戦争の際、篭城戦が展開されたのがここ。敷地内は思ったよりずっと広いのですね。
鶴ヶ城は、戊辰戦争後に明治政府によって取り壊され、現在の天守閣は、会津の人たちの強い要望で、1965年に再建されたもの。内部は資料館になっています。天守閣からは、会津盆地が一望でき、午前中訪れた、飯盛山を望むことができます。
飯盛山からお城を探した時のように、ここでも赤と白のポールが目印。
◆秋月悌次郎の歌碑
鶴ヶ城三ノ丸に、会津藩士・秋月悌次郎の「北越潜行」の詩碑があります。秋月の波乱に満ちた生涯を描いた小説「落花は枝に返らずとも」の中で、秋月がこの漢詩を読む場面が、私は強く印象に残っています。
戊辰戦争後、秋月は、猪苗代での謹慎中、密かに北越の奥平謙輔(長州藩)を訪ね、会津藩への寛容な処分を訴えるとともに、会津の若い人材の育成を彼に託すのです。(そのうちの1人が後の東京帝国大学総長となる山川健次郎)この詩は、その帰途の束松峠において、憂い悩む気持ちを詠んだ悲壮の絶句です。
行くに輿なく 帰るに家無し
国破れて 孤城雀鴉乱る
治功を奏せず 戦 略無し
微臣罪あり また何をか嗟かん
聞くならく 天皇元より聖明
我が公の至誠を発す日に貫なし
恩賜の赦書 応に遠きに非ざるべし
幾度か手に額をして 京城を望む
之を思い之を思うて 夕晨に達す
愁いは胸臆に満ち 涙は巾を沾す
風は淅瀝として 雲は惨憺たり
何れの地に君を置き 又親を置かん
「行くに輿なく帰るに家なし」という導入に、当時の会津の人の置かれた状況が忍ばれ、思わず涙腺が緩んでしまいます。どうしようもない絶望と、生きる目的を見失う状況の中、秋月は、「落ちた花は、その枝に還って咲くことは二度とできないが、来年咲く花の種になることはできる」と光を見出し、その後、教育者として生き抜く道を選びました。戊辰戦争と言うと、白虎隊の悲劇ばかりが有名ですが、幕末の会津について調べる中で、どんな悲惨な状況に身を置きながらも、背筋を伸ばして凛として生きる姿を見せた、秋月のような人々の生き様が、私にとっては、心を打つものがあります。