司馬遼太郎の『南蛮のみち』を訪ねる旅の続き。
今日は、ビトリア・ガステイス(Vitoria-Gasteiz)を出発し、魚の炭火焼とチャコリで有名なスペイン北部の港町ゲタリア(Getaria)へ向かいます。
旅6日目にして初めての快晴!絶好のドライブ日和です。
ゲタリア(Getaria)へ向かう途中、イエズス会を創設したイグナシオ・デ・ロヨラが生まれ育った山間の町・アシペイティア(Azpeitia)を訪ねることに。ロヨラが生まれた地は、LOYORA(バスク語でLOIOLA)という地名になっていて、ロヨラの生家とロヨラを祀る聖堂が今も大切に保存されています。
山々の間から突然、巨大で立派な聖堂が現れたときには、驚きました。初めて訪れても、絶対に迷いようがない。・・・というか、ものすごい存在感。聖堂の右手の駐車場にレンタカーを停めてから正面に回ってパチリ。
イグナシオ・デ・ロヨラは、バスク地方の山間のアスペイティアのこの城で生まれました。軍人でしたが、パンプローナの戦いで負傷。この城で療養中に神の啓示を受け、聖職者を志すようになり、パリ留学中に知り合ったフランシスコ・ザビエルらを巻き込んでイエズス会を創設。積極的な海外布教にメンバーを駆り立てていきます。ロヨラがいなければザヴィエルが宣教師になることもなく、日本に来ることもなかったのですよね。
目の前に聳える巨大なバロック様式の聖堂(バシリカ)は、後の世の17~18世紀に、ロヨラの生家を取り囲むようにして築かれました。
ザヴィエルの生まれたハビエル城では、質朴な造作に深い感銘を受けた司馬さんでしたが、ロヨラ城では、その過剰な装飾になじめなかったようです。
遠望すると、堂々たるバロック様式の建物である。バロックについては、ときには結構なものだとおもうときがあるが、多くの場合、思いつくかぎりの言葉を投げつけたい思いにかられる。装飾過剰、悪趣味、彫刻の濫用、富と威厳の装飾化、悪徳の造詣化、成金趣味・・・・。この「ロヨラの御堂」は17世紀の改造のときの施主の趣味であり、その当時の流行に過ぎなかった。(司馬遼太郎著「街道を行く 南蛮のみち」より)それにしても、なんの装飾もなく、荒野に鉄サビ色の砦としてうずくまっていたザヴィエル城とのちがいはどうであろう。(司馬遼太郎著「街道を行く 南蛮のみち」より)まずは、後に作られた聖堂内へ。
主祭壇には大理石の象嵌が施され、銀のロヨラ像が鎮座しています。
日光東照宮のように金色燦然としていた。ロヨラの人柄のなにごとかをあらわしているのか、装飾、金具などが下品で華美である。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)こちらは、フランシスコ・ザヴィエル像
ドーム型の円天井は高さ50m、直径20m。改築費を負担したハプスブルク家とブルボン家の紋章が描かれています。
採光のために設けられた8つの高窓から柔らかな光が聖堂内を照らします。
聖堂のすぐ裏側に隠れるように、ロヨラの生家があります。
1階は家畜小屋と穀物倉庫で、2階と3階が住まいだったそうです。現在、博物館と礼拝堂とイエズス会の研究施設になっています。
博物館を見学させていただくことにしました。
博物館のレセプションのマダムは、おしゃべり好き。入場券を購入したいのだけれど、先客の女性グループ客との会話が盛り上がってらっしゃる。のんびり待っていたら、ひとしきりおしゃべりして先客を笑顔で見送ったマダムがニコリ。相手が日本人であっても、Smile&Talking! 日本のどこから来たの? 私も日本に行ったことがあるのよ、なんていう町だったかしら、という具合にこちらの語学力関係なしに会話が進みます(^^) マダムのヒントから小倉という地名をなんとか引き出せたところで入場券の購入完了。
(スペインのバスクの田舎町で、九州の小倉の話をするとは思いませんでした。イエズス会の関係の施設が小倉にもあるのでしょうか)
笑顔で見送られ、ようやく博物館の見学へ。
博物館の入口には、パンプローナの戦闘で砲弾が脚に当たって負傷した直後のロヨラのブロンズ像があります。このときロヨラは、フランス側についたザヴィエルの兄たちと同じバスク人でありながら敵味方に別れて戦っています。その11年後に、ザヴィエルたちと「モンマルトルの誓い」を結び、イエズス会を創設しているのですから、かなり激烈な人生。
お城のような入り口から、博物館の中へ入ります
入り口の扉の上にある彫刻は、どういう意味があるのでしょうか。ロムルス、レムスにも見えなくもないですが、ローマじゃないですし・・・。
ロヨラの生家の間取り図。建物の内部は、家族団欒の間や、食堂、書斎などが当時の様子に近い状態で残されています。
こちらは、ロヨラが生まれた部屋
療養生活中に聖人伝を読みふけったロヨラは、親の付けた名前イニゴをヨハネの弟子イグナティオスにちなむイグナチオに代えてしまったそうです。
ロヨラが祈りを捧げたロヨラ家の祭壇。
こちらの部屋は、穀物倉庫として使われました。
ここは、家族団欒の場だったダイニング。
館内には、ロヨラが布教活動をしている場面が、
彫刻や絵画などさまざまなレリーフになって
ここかしこに飾られ、ロヨラの功績を讃えています。
ほんとうにたくさんあります。
パンプローナの戦いで負傷した場面のモチーフは、ほんとうにあらゆるところにありました。
いたるところにーと言いたいほどーロヨラにちなむ銅像がすえられ、絵がかけれれ、蝋人形が私どもをおどした。
多くのモティーフは、ロヨラが、パンプロナ城の籠城戦で負傷して倒れている情景だった。ロヨラをスペイン兜の兵士数人がかかえおこしていた。おなじ情景が露天の銅像(じつによくできている)にもあり、館内の壁画ー照明があたっていたーにもあり、ロヨラの一代記を一場面ずつ芝居のように作りつけた小さなパノラマもあった。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)
売店で探したのは、ロヨラの肖像画のポストカード。「南蛮のみち」では、司馬さんが神父さんにプレゼントされたエピソードが書かれています。
売店に、ロヨラの肖像画ーそれもパスポート写真のように真正面の顔だけのものーが売られていた。
私は、売店の前で立ちながらこの肖像画ばかりは買うまいと思っていたのだが、通りかかった神父さんが、ひょいとその絵を抜いて私にくれた。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)
司馬さんは、ロヨラのあまりに強烈な個性にあてられて疲れ切ってしまったようで、「南蛮のみち」でもその様子がありありと書かれていたのですが、そのスケールたるや、本を読んで想像した以上のインパクトでした。外観はもとより、博物館も聖堂も見ごたえがあって、楽しく見学できました。来て良かった!
1時間以上、館内にいて、頭がいたくなった。やっと館外に出ると、遠山が眉のようにのびていて、救われた思いがした。
ロヨラという強烈な個性のにおいを嗅ぐことができたような気がして、ここまできた甲斐があったとおもった。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)
あまりに天気が良いので、予定を変えて、ゲタリア入りする前に、もう一箇所寄り道することにしました。フランス側の山バスクからスペイン側の山バスクへと旅してきましたが、いよいよ海バスクへ!