5日目(8月17日)
古代壱岐を支配した豪族・壱岐氏は、占部氏の出で、月読尊(つきよみのみこと)と探い関わりがあります。
●月読神社
壱岐の芦辺に月読神の本家である壱岐の月読神社があります。祭神である月読尊は、卜占によって航海の海上案内をしていた壱岐氏が祀った海の神様です。
日本書紀によれば、朝鮮半島の任那に渡った阿閉臣事代(あえのことしろ)が、壱岐の月読神社で月読尊の神託を受け、天皇に奏上したところ、天皇は、壱岐県主(いきのあがたぬし)・押見宿禰(おみしのすくね)を京に呼び、京の嵐山に壱岐の月神を分霊し、祀らせたそうです。
以後、壱岐氏の遠祖である押見宿禰の子孫は、卜部氏を称し、京都の月読神社の神職を代々つとめています。
●遣新羅使・雪連宅満の墓
壱岐から京に渡った押見宿禰の子孫にあたる雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓が、印通寺港から程近い石田野にあります。
雪連宅満は、聖武天皇が天平8(736)年に派遣した遣新羅使の一員でしたが、朝鮮に辿り着く前に壱岐で病死。父祖の島で眠ることとなりました。
案内標識に従って、国道から枝道に入り、緩やかな勾配を上ったあたりで車を停め木立を抜けると
空が大きく開け、その先に、小さな杜があります。
蔦に覆われた盛土に佇む小さな石塔が、雪連宅満の墓です。1280年もの時を経て残り、現在も供養が行われていることに大きな驚きを感じます。
司馬遼太郎は、雪連宅満が、卜占を扱う壱岐氏の家系であったことから、安全な航海をするために卜占によって船出の吉凶を占う卜占官として遣新羅使の一行に加わっていたことを明かし、その縁につながって、島の人が丁重に墳土を築いたのであろうと述べています。
この遣新羅使一行は、新羅で国王に面会することなく、追い返されてしまい、詠んだ歌だけが残っています。
この遣新羅使は日本の政治史にはどういう貢献もしなかったが、大阪湾を出て以来、船泊のつどおそらく全員が歌を詠み、そのうちの秀歌を記録し、保存し、ついに帰還まで百四十五首という大量の秀歌を「万葉集」に入れたということで、文学史上の大きな業績をのこしたことになる。(司馬遼太郎『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)
万葉集で雪連宅満が、詠んだ歌です。
大君の命かしこみ 大船の 行きのまにまに やどりするかも
雪連宅満が亡くなったときに、同僚が詠んだ歌です。
石田野に宿りするきみ、いえびとの いづらとわれを、問はばいかに言わむ