司馬遼太郎の『街道をゆく 島原・天草の諸道』を読みながらの旅のつづき。司馬遼太郎一行に倣って、明徳寺を出た後、延慶寺へ向かいました。
●延慶寺
『街道をゆく』の旅で、司馬遼太郎曰く
諸事ひかえめな須田剋太画伯たっての望みとあって訪れたのが、兜梅の名木で知られる延慶寺です。門をくぐり境内へ。
案内板にしたがって寺社の左手を歩いていくと
苔生園という庭園に導く門があります。
すずやかに思われたのは、この寺には、観覧料をとって梅を見せようというよう気分がすこしも無いことだった。 しかも矢印を描いた紙が本堂の左端に貼ってあり、それをたどってゆくと、裏庭に出た。柴折戸がある。・・・本堂裏の庭園に入ることを黙許するがのように、また矢印がある。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)門をくぐると、兜梅の名の由来となった女武将を詠った歌碑があり
もののふの つまのこころや かぶとうめ
その奥の苔に覆われた庭に、臥龍梅と称される樹齢約500年の白梅の老木が枝を大きく広げています。
須田画伯はすっかりとりこになり、夕闇のなかをはねまわるようにして、あちこちから見たり、すかしたり、よろめいたりしている。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)説明版では、司馬遼太郎の『街道をゆく 島原・天草の諸道』の一節が紹介されています。
雀色の夕闇いっぱいに、無数のクリーム色の点がうかんでいた。三千世界に梅の香が満ちるということばがあるが、香よりもなによりもこの場の情景は、花の美しさだった。・・・白梅にはチリ紙のように薄っぺらい白さのものが多いが、ここの梅の花は、花弁の肉質があつく、白さに生命が厚っぽく籠っているような感じがする。ともかくも、こういう梅の古木も花の色も見たことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)天草下島を時計回りに南下します。
●河内浦城跡
天草地方は、肥後国にありながら、江戸初期は肥前唐津藩の領土として支配され、多数の支城でもって厳重に監視されていました。その一つ、河内浦城へ。
河内浦城は、天草五人衆の筆頭で、加津佐にあったコレジョ(キリスト教の高等教育機関)を天草に招いた天草氏の居城となった山城で、山麓に天草氏の居館が置かれました。
本丸跡は公園として整備され、物見櫓などが復元されています。
向かい側に見える山は「下田城址」。
河内浦城は、天草五党の乱後、小西氏の支配下を経て、唐津藩寺澤家の支城となり、下田城とともに詰めの城として、肥後加藤藩や、切支丹の動向を監視する役目を担いました。
遊歩道を下って、天草氏の居館のあった山麓へ。
●崇圓寺
天草氏の居宅跡は、城が一国一城令で廃城となった後、郡代屋敷がを置かれ、島原天草の乱後、崇圓寺が建てられ、現在に至ります。ここには、加津佐から移転したコレジョが置かれたという説もあるそうです。
立派な山門の前には、伊能忠敬・松平信綱宿泊地の標柱が建っています。
伊能忠敬は、1810年(文化7年)に、天草の河内浦一帯の測量と、天体観測を行うため、天草に56日間滞在。江戸幕府の老中・松平信は、島原の乱後、天草を視察に訪れ、河内浦郡代役所が置かれていたこの地に宿泊したとあります。
さらに南下します。