司馬遼太郎の『街道をゆく 肥前の諸街道』を読みながら、肥前を旅しています。唐津から虹の松原に向かい、今津浜に残る元寇襲来の史跡を訪ねました。
●虹の松原
数時間前、唐津城の天守から眺めた虹の松原へ車を走らせます。
松林の中には国道202号が通っていて、松のトンネルのよう。
虹の松原は、唐津藩初代藩主・寺沢広高が、唐津城を築城する際に、唐津湾の海岸線の砂丘に黒松を2里(8キロ)に渡って植林した防風林。松林の向こうに台形の形をした、鏡山が見えます。
日が高いうちに来ることが出来たら、もっと綺麗だっただろうなぁ。薄暗くなってきたので、先を急ぎ、今津浜へ向かいます。
●蒙古塚
モンゴル軍が襲来した今津の浜には、当時の史跡が残っています。そのうちの一つが野の花学園という養護施設の敷地内に建つ「蒙古塚」と刻んだ石碑です。
ここには、蒙古襲来時のモンゴル人捕虜の死体と彼らを迎え撃った日本人の死者がともに埋葬されています。こうした塚は、今津浜の東西二ヵ所にあり、こちらは、西塚(千人塚)。元寇について司馬遼太郎は「日本が普遍的文明というおそるべきものに触れた最初の経験であったといっていい。」と書いています。
●元寇防塁
松林の中に、モンゴル軍の上陸を防ぐために築かれた元寇防塁を探します。
フェンスに囲まれた一角に、高さ2m石積み、長さ200mの石積みが保存されていました。この石積みは、鎌倉幕府が、モンゴル軍の再襲来に備え、博多湾沿いに築いた防塁の一部。地中に埋もれていたところを発掘され、復元されています。
松原が、海にむかって登り勾配になっている理由がやがてわかった。元寇のころ、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士たちの築いた防塁があったからであろう。防塁は、当時、石築地とよばれた。ぜんたいに二メートルぐらいの高さだったが、その後、土砂にうずもれ、標高四、五メートルぐらいの丘状をなすようになり、やがていつのほどかその丘に松原ができ、砂の底の石築地は、数世紀以上も前にひとびとの記憶から消滅したのである。●今津浜
今津の浜は、モンゴル軍が密集して上陸した地点。
防塁は、博多湾沿岸の今津浜から香椎まで全長20kmに渡って築かれたそうです。
浜の手前に、白い渚に並行して大きな土手が延びており、草におおわれている。一見して防塁が土に埋もれているといった姿だった。・・・たかが二メートルの変哲もない石塁を築いて世界帝国の侵略軍を防ごうとしたというのはまことに質朴というほかない。(司馬遼太郎『街道をゆく 肥前の諸街道』より)博多に戻り、今回の小旅行を終えます。