幕末の会津ゆかりの地を歩く。再び、京都編。今回は、江戸幕府の始まりと終焉を飾った歴史の大舞台・
二条城を訪ねた時のお話を。幕末期に京都守護職に就いた会津藩主・松平容保や藩士たちが、参内警護した場所でもあります。
●二条城
二条城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、上洛時の宿として京都御所のすぐ近くに築城した城で、3代将軍・家光が後水尾天皇の行幸を迎えるために大規模な改修を行いました。その後、歴史の表舞台から姿を消していたのですが、約230年後の幕末に最後の将軍・徳川慶喜の登場とともに再びスポットライトを浴びることになります。
豪華な車寄のある二の丸御殿は、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と6つの殿舎で構成されています。最も格式の高いのが「大広間」。一の間は広さ48畳、二の間は44畳あり、将軍はここで諸大名と対面しました。寛永期の大改築の際に、狩野探幽率いる狩野派の画人たちによって描かれた障壁画のうち、大広間の四の間にある松鷹図は、最も桃山時代の雰囲気を色濃く残していた障壁画として知られています。
(築城400年記念・展示収蔵館パンフレットより)「大広間」の奥にあるのが「黒書院」。こちらは、将軍が、親藩大名と譜代大名などの側近たちとの対面に使用した部屋。幕臣で京都守護職を務めた会津藩主・松平容保も、ここを幾度となく参内したことでしょう。
1867年(慶応3年)、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は、黒書院にて重臣に大政奉還の意を伝え、翌日大広間で諸大名の前で大政奉還を宣言します。慶喜は、将軍職を手放し形だけ幕府を畳んでしまうことで形式的に倒幕を実現させ、天皇の下での諸侯会議で改めて新政府の首長に就こうとしたのですが、倒幕派の巻き返しによる、王政復古の大号令とその後の小御所会議で、官位と領地の返上を命じられ、名実ともに徳川の世が終わります。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われた二条城は、江戸幕府の始まりと終焉を演出する終わりを告げる舞台となりました。徳川家とともにあった城だったんですね。