京都・大阪での会津ゆかりの地にまつわる話が続いています。今回は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いの跡地を訪ねたときのお話を。京都盆地の南に位置する伏見は、豊臣秀吉ゆかりの伏見城の城下町として、江戸時代になると京都・大阪・奈良を結ぶ、水運・陸運の要衝として栄え、幕末期には、多くの事件の舞台となりました。
●鳥羽伏見の戦い勃発地
鳥羽伏見の戦いの発火点となったのが、城南宮の表参道西を通る鳥羽街道が鴨川に架かる小枝橋です。
鳥羽伏見の戦いは、新政府から徳川家の排除を強行採決した薩長率いる新政府軍と、旧幕府軍の間で起こった戦いです。
旧幕府軍は、鳥羽街道を北進して京都へ進軍する途中、ここ小枝橋で、これを阻止しようとする新政府軍と睨み合いとなりました。
薩摩軍が発砲したアームストロング砲の砲音をきっかけに、鳥羽方面での戦いの火蓋が切られました。
橋の袂には、石碑と、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地碑が建っています。
●鳥羽離宮跡公園
鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が京都の南区鳥羽に造営 した離宮。
鳥羽羽伏見の戦いでは、公園内の築山の小高い丘の上に薩摩軍が大砲を備えて布陣していました。
ここから発砲した大砲の音をきっかけに戦いは始まり、ここも激戦地となります。
築山の麓には、鳥羽伏見の戦いの戦闘図碑があります。
丘の上には鳥羽伏見戦跡碑が建っています。
石碑には、徳川慶喜が会津・桑名藩兵を従えて、薩長軍と鳥羽伏見で戦火を交えたことなどが、江戸後期の書家である山田得多(古香)の書で標されています。
●城南宮
鳥羽離宮跡公園から国道を挟んだ東側に城南宮があります。城南宮は、平安遷都の際に王城の守護神として、京都御所の裏鬼門(南西)にあたる場所に建立され、方位除け、厄除けの神として信仰されています。
鳥羽伏見の戦いの際は、新政府軍の前線基地となり、薩摩軍がここに布陣。錦の御旗が翻り、新政府軍の勝利が決まると、戦勝の御礼参りに訪れたそうです。
庭園内の
梅や椿はそれは見事で、春と秋に、雅な王朝絵巻さながらに平安時代の貴族の歌遊びを再現する「
曲水の宴」でも有名です。(そのお話はまた
後日)
●伏見口の戦い激戦地跡碑
続いて伏見方面へ。鳥羽の南に位置する伏見の濠川にかかる京橋のたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の石碑と説明板が建っています。 鳥羽で幕府と薩長が戦争を始める前日の夕刻に、会津藩の先鋒隊約200人が大阪から船でこの京橋に上陸ました。橋の下には、伏見の水辺をめぐる三十石船の船乗り場があります。
●寺田屋
京橋の近くには、伏見の船宿・寺田屋があります。文久2(1862)年の寺田屋騒動や、慶応2(1866)年の坂本龍馬襲撃事件でおなじみの場所。狭い道路に観光バスが横付けする伏見界隈1番の人気スポット。この一体は鳥羽伏見の戦いの舞台となり、建物は焼失。建物は、その後再建され、現在も宿泊可能なのだとか。
●伏見土佐藩邸跡
古い酒蔵が立ち並ぶ一角に土佐藩邸跡の石碑が建っています。土佐藩邸のある界隈は、幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所がありました。
●伏見御堂・会津藩駐屯地跡
土佐藩邸のすぐ近くにある伏見御堂は、桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建。本堂は、向島城の遺構を改築したものと伝えられています。向島城は、関が原の戦い前後、徳川家康が入城した伏見城の出城で、3代将軍・家光の代に廃城となりました。
幕末の鳥羽伏見の戦いの前夜、大阪から京都へ進軍する会津藩の先鋒隊約200人が、ここを宿陣としました。
門前には、会津藩駐屯地跡の石碑が建っています。
伏見での戦いは、鳥羽方面での砲音に触発される形で戦端が開かれます。本堂の畳を楯に銃撃戦があったとも伝えられており、建物は大きな損害を受けました。
現在は、鐘楼と山門が残されています。
●伏見奉行所跡
伏見奉行所は、徳川幕府の3代将軍・徳川家光が、豊臣秀吉が築城した伏見城を破壊した跡地に設置しました。桃陵団地の入口に、伏見奉行所跡の石碑が建っています。
鳥羽伏見の戦いでは、伏見奉行所に、旧幕府軍が結集。大手筋を隔てた北側の高台にある御香宮神社に新政府軍が陣を構えました。
旧幕府軍は、伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などを決めたとされています。
明治に入って、跡地は、陸軍の工兵隊の基地となり、現在は、桃陸団地となっています。団地の入口には、この地の歴史を物語る、伏見奉行所跡碑、伏見奉行所遺構の石垣の石碑、伏見工兵第十六大隊跡碑が建っています。
●御香宮神社
御香宮神社は、伏見九郷の産土神として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。伏見奉行所を眼下に見下ろす高台にあり、薩摩軍を中心とした新政府軍は、ここに、大砲の陣列を配置しました。伏見での戦いでは、ここから旧幕府軍が布陣する伏見奉行所を一斉射撃しました。
●魚三楼
伏見奉行所跡から程近くの京阪本線「伏見桃山」駅前にある魚三楼は、江戸時代の明和元年(1764年)創業の京料理の老舗です。
幕末の鳥羽伏見の戦いの際、魚三楼が店を構える京町筋には、新撰組が布陣。銃砲で武装した薩摩藩軍との間で激しい戦いが繰り広げられました。店の表の格子には、当時の銃撃戦の弾痕が残っています。
鳥羽伏見の戦いは、新政府軍の掲げる錦の御旗の前に、形勢を展望していた諸藩が新政府軍になだれ込み、旧幕府軍は総崩れする形で敗退。戦いの舞台は、ここ伏見から白河、そして会津へと移ります。
伏見は、同じ京都でも、御所周辺の中心部とは、また趣や風土が異なる独特の雰囲気がある町でした。酒蔵が立ち並ぶ町並みには城下町だった頃からの町割が残り、濠川には旅人を乗せた三十舟や十石舟が行き来し、幕末に思いを馳せながら、散策を楽しむことができました。旅の最後は、京阪電車のサイトのコピー「
宇治で一服。伏見で一杯。」に倣って、伏見の銘酒で一献。伏見の酒はいいですね。
伏見散策中に
食べるなら・・・