春の18きっぷ旅。今回は、山田方谷ゆかりの地を訪ね、旧大佐町(現在:新見市)へ。大佐行きは、2010年に
備中松山~高梁を旅した時からの積み残しの宿題となっていました。JR津山駅から新姫線に乗り換え、JR刑部駅で下車します。
国道318号に出て、小阪部川を左に見ながらテクテク歩いていると、「山田方谷記念館」と「方谷庵」の案内が見えてきました。
●山田方谷記念館
駅から15分程で、山田方谷記念館に到着しました。山田方谷は、幕末期の備中松山藩の財政改革を成し遂げた 陽明学者で、優れた教育者でもあった人物で、司馬遼太郎の小説『峠』では、主人公の長岡藩士・河井継之助に大きな影響を与えた人物として描かれています。
入り口には、山田方谷のブロンズ像が鎮座しています。
記念館では、山田方谷が書いたとされる大政奉還上奏文の草案や、書などを展示するとともに、その生涯と足跡を年表のパネルやビデオで紹介しています。小さな記念館で、展示品もわずかですが、ボランティアガイドの方が、展示してある書や、遺蹟碑の拓本(複製)などに書かれている内容を丁寧に説明して下さるので、方谷についての一通りのことをお勉強することができます。
●方谷庵
続いて、記念館のすぐ右手に建つ案内板にしたがって「方谷庵」へ。この庵は、山田方谷が母の生家の西谷家の菩提寺である金剛寺境内に建てたものだそうです。方谷は、外祖父母の墓参りをする際、ここで休息したそうです。
方谷が晩年をすごした場所を訪れるため、来た道を小阪部川に沿って戻ります。
駅前を通り過ぎてからさらに10分程歩くと、右手に小さな公園がありました。
●山田方谷終焉の地(方谷園)
記念館で写真を見た背の高い顕彰碑がポツンと建っています。ここが方谷園。
公園に入るとすぐ右手に「小阪部陣屋跡」の石碑と礎石があり、案内板が建っています。案内板によりますと、小阪部陣屋は、備中松山藩主水谷勝隆の死後、2千石で分家した次男・勝能が開いた知行所(陣屋)とのこと。
晩年、小阪部に隠棲した方谷は、小阪部陣屋跡に小阪部塾を開き、門弟に見守られながら、この地に永眠しました。小阪部塾で方谷が息を引き取った時、枕のあった地点に建てられたのが、この「方谷山田先生遺蹟碑」です。
題字は、勝海舟
「我が方谷先生」で始まる碑文は、三島中洲によるものだそうです。
遺蹟碑の右手奥にひっそりと建つ「忠魂碑」は、陸軍中将 本郷房太郎の書。本郷房太郎といえば、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で、「色白で五月人形の桃太郎のような顔の男」と紹介された人物でしたっけ。意外な方の史跡にお会いすることができました。これも旅の面白さ。
駅へ戻る道すがら、ほとんど誰ともすれ違うことがないような場所なのに、床屋と畳屋が何軒もあることが、気になって、気になって。ほんの数百mの間に、どちらも数件ずつあったような気がします。そんなに需要があるのかな。営業が成り立つのかな、成り立ってるからあるんだろうなぁ。謎だなぁ。
本日歩いたエリアは、上記の地図の通り。山田方谷について復習し、その足跡に触れた数時間でした。
+++++マンホールチェック++++++
旧大佐町は、2005年の市町村合併で新見市となった地域で、現在の地名は、新見市大佐小阪部。地名は「小阪部(おさかべ)」ですが、駅名は「刑部(おさかべ)」。方谷園の碑文には、ここの地名を「刑部」と刻んでありましたが、そこに建つ石碑は「小阪部陣屋跡」。・・ややこしい。どなたか、この使い分け、この違い教えて下さい。そんな旧大佐町時代のマンホールのデザインチェック!
大佐山を背景にパラグライダーがあり、、町の木であったヒノキ、町の鳥だったウグイス、町の花だったシャクナゲをあしらっています。