安芸吉田の町へ入って早々、宿に入らず、そのまま通り過ぎて、町の北部に盛り上がっている郡山城跡に登ってみた。毛利元就の根拠地であったこの城山を、どこよりもまず知っておかないと吉田の町の中にいる実感がわきにくいと思ったのである。(司馬遼太郎『街道をゆく 芸備の道』より)
◆安芸高田市吉田歴史民族博物館
毛利元就が幼少期を過ごした多治比猿掛城跡と、居城とした吉田郡山城址を訪ねる前に、訪れたのが、郡山城の麓にある
安芸高田市吉田歴史民族博物館です。毛利家の歴史を判りやすく紹介する資料、ビデオが充実しているほか、周囲の山城との位置関係がひとめでわかる地形図、模型もあり、城歩きの前の予習に格好の施設です。
城の縄張り図も入手でき、学芸員の方が、見学にかかる時間や、ポイントを丁寧に教えてくださるのも嬉しい。城歩きの前に是非とも立ち寄りたい。
郡山城は、毛利氏260余年の居城となった山城です。南北朝時代の1336年に毛利時親が郡山の東南麓に旧本城を築城したのがはじまりで、後に、元就が山全体を城郭化。郡山山頂の本丸を中心に放射状に伸びる尾根上に郭を配置した造りになっています。
◆毛利元就墓所
まずは毛利元就の墓所を目指して、登り始めます。
一族の墓所より一段高い場所に元就の墓所があります。
墓域を示す土盛りのそばには、元就の遺言によって墓標として植えられたハリイブキが、既に白く枯死しながらも、凄みを漂わせています。
墓所の脇には、郡山城築城の際、毛利元就が人柱に代えて一日一力一心の大石を鎮めとしたという「百万一心」伝説を称えた記念碑も建っています。
ここから本丸まで、800m。案内に従って、登山道をただまっすぐ登っていきます。
古墳跡の前を通り過ぎます。
鬱蒼とした木々が開けて吉田の町並みが見渡せるビューポイント。
さらに登山道を進むと、まずは御蔵屋敷跡が見えてきました。
御蔵屋敷跡から進路を右に取ると二の丸跡。その先にあるのが本丸跡です。
登山口から20分弱で山頂にある本丸跡まで辿り着きました。
本丸は2段に分かれていて北側の一段高くなった部分が櫓台跡。
背後をスパっと堀切った感じが、上手く撮るのは難しい・・・。
城内最大の郭である三の丸。
長大な郭の背後を掘切っている尾崎丸の堀切。
下山する途中、安芸高田市の町並みが一望できるポイントがあります。麓の県立吉田高校から聞こえてくるブラスバンドの練習音が、戦国の世界から現代に戻してくれます。
ぐるっと周って駐車場の近くまで戻ってきたら、毛利元就の長男の隆元の墓がありました。墓石には「大江」とあります。毛利家は、大江広元を祖としていたんですね。
郡山城西端の山際には、城の内堀とみられる薬研堀の跡が残っていました。
◆多治比猿掛城址
続いて向ったのが、毛利元就が家督を継いで郡山城に移るまでの少時代を過ごした多治比猿掛城址です。
多治比猿掛城跡は、郡山城跡から北西4km、多治比川右岸の烏帽子山の尾根先端に築かれた山城です。
麓には、毛利元就の父・毛利広元の墓があります。
出丸、物見丸へ行くルートもありましたが、我々は、本丸を目指すことに。
広元の墓の先に、本丸への登山口がありました。
細くて、傾斜もあり、まむし君もちょろちょろ出てくる獣道のような山道を登りきると、目の前がパーッと明るく開けます。
急峻な地形に守られた本丸跡。
石見路を監視する役目もあったという城の本丸跡から、東側を望む。
本丸の南側は、15mバッサリと切り落とした堀切になっていて、崖のようになっています。写真ではうまく伝わらないのが残念。
そろそろ下山して、お昼ご飯にしましょう。