西南戦争の際、薩軍と政府軍による戦いの舞台となったげた臼杵城を訪ねました。
◆臼杵城(丹生島城)
臼杵城は、戦国時代の一時期、北九州で勢力を誇った大友義鎮(宗麟)が、毛利氏の豊後攻めに備え、臼杵湾に浮かぶ7つの島のひとつである丹生島に築いた海城です。
臼杵川河口にあった丹生島は周囲が断崖絶壁で、西側が僅かに陸地に面する天然の要害で、これを丸ごと城郭としました。自然を縄張に取り込んだ典型的な海城で、石垣や堀、櫓などが残されています。
2001年に木造で復元された二の丸大手の二層櫓門。背後に枡形はありません。
二の丸跡には、臼杵城を居城とした大友宗麟のレリーフと、大友宗麟がポルトガル人から入手した日本初の大砲「国崩」のレプリカが並んで建っています。
西南戦争の際、臼杵の旧士族たちが、薩軍から臼杵を守ろうと臼杵勤王隊を結成し、警視隊とともに薩軍が迎え撃ちますが、薩軍の猛攻に敗走。臼杵城は落城します。その後、熊本鎮台や海軍が進軍を開始し、激戦の末、臼杵を奪還しました。
西南戦争で戦死した臼杵隊を祭る「勤王臼杵隊之碑」。
二の丸から本丸への入口にあたる鉄門櫓跡の石垣。
広々とした本丸跡。春は桜の名所として賑わうそうです。
天主櫓跡。この場所にはかつて、3層4重の天守櫓がありました。
本丸の東南隅の亀首櫓跡からの眺め。往時はここから臼杵湾が広がっていました。
卯寅口門脇櫓。現存する2層3重櫓で、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根が特徴。
卯寅口には、大友宗麟が築城の際に建立した卯寅稲荷神社があり、その参道となっています。
本丸搦手の卯寅口門は、海に通じる門でした。
門の右の崖の上が本丸跡。
駆け足でしたが、要塞化した海城の迫力を体感することができました。