4日目
太宰の『津軽』は旧制青森中学時代の思い出から始まります。
きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、それ故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。
青森の町は、太宰が書くように「旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない」つかみどころがない町。この海岸の小都会での下宿生活で、太宰は文学に目覚め、本格的な執筆活動を始めます。
◆旧制青森中学校跡
太宰が通った旧制青森中学校は、現在、青森市営野球場になっています。
球場の駐車場の裏手が、正門跡。校舎は、青森空襲で焼けてしまい、門のコンクリートの土台だけが、当時の名残を留めています
。
球場の前には、1950年にこの球場で巨人の藤本投手が、日本プロ野球史上初の完全試合を達成したことを祝う記念碑が建っていました。
◆合浦公園
球場に隣接した合浦公園は、太宰が『津軽』で「中学校の裏庭と言っていいほど、中学校と密着していた」「海峡に面したひらたい公園」と書いた公園です。
公園の由来を紹介する案内板によりますと
合浦公園は、津軽藩のお抱え庭師だった水原(旧姓柿崎)衛作が、時の県令山田秀典の支援を受け、1821年に着工。工事中に県令が死亡し、資金難に陥った衛作は、資財を投じて造園を続けますが、過労により44歳で死亡。彼の意思を弟の巳十郎が引継ぎ、1834年に公園を完成させ、当時の青森町に寄付したそうです。この兄弟あっての公園なんですね。
敷地内には、公園の造営に献身的な奉仕をした兄弟の銅像が建っています。
公園の中心には、津軽の歴代藩主が酒を献上した樹齢470年を越える「三誉の松」が。
松の木の林を通り抜けると海辺が。
私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。
太宰はこの公園を気に入っていたようで、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩く裏道を使って学校に通っていました。
海辺からは、太宰が、青森時代の一時期、湯治に来ていた母と姉と一緒に暮らした、太宰曰く「どこかすれたような」浅虫温泉も遠望できます。