8月29日(土) つづき
戊辰戦争の白河口の戦いの舞台となったのは、白河小峰城から南へおよそ2km程の場所にある稲荷山の麓です。
稲荷山を挟んで、雷神山、薬師山の丘陵が横たわるこの一帯は、奥州街道から白河への正面玄関にもあたる場所。白河防衛の最終ラインで、会津藩にとって戦略上の重要拠点でした。写真の通り、さほど高い山ではありません。
白川口の戦いで東軍を率いたのが、会津藩家老・西郷頼母。一旦は新政府軍を退けますが、稲荷山に主力を集中させ両翼を手薄にした所を、新政府軍に東西から挟撃され、敗走。白河小峰城も落城します。
●権兵衛稲荷神社
古戦場となった稲荷山に登ってみることにしました。
山頂には、稲荷山の鎮守の権兵衛稲荷神社の本殿があります。
山頂からは、伊地知正治(薩摩藩)率いる新政府軍が布陣した小丸山が見えます。ここが、激戦の舞台となりました。
山頂の見晴らしの良い場所に、白河口の戦いを指揮した会津藩家老・西郷頼母の歌碑があります。
うらやまし 角をかくしつ 又のへつ
心のままに 身をもかくしつ
頼母は、敵からは「朝敵の将」と見られ、会津の人からは、白河口の戦いで惨敗した「無能者」、藩論に逆らって恭順を主張した「腰抜け」、敗戦の責任を負って切腹しなかった「臆病者」などと酷評されています。
妻や娘たちが籠城戦の際に揃って自刃したこと、人望のあった萱野権兵衛が頼母の代わりに戦争責任者として切腹したことは、頼母の意志とは関係のないところでの出来事でしたが、生き永らえた頼母に対する世間の目をより厳しいものにしました。
頼母は、そのの苦しい心情を「身を隠すことのできるかたつむりが羨ましい」と吐露しています。碑の脇にはご丁寧に、かたつむりの像までありました・・・。
妻・千恵子の辞世とは対照的。
なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節の 有りとこそきけ稲荷山の遠景。この場所で、たった1日で700人以上が戦死したのです。
稲荷山の東にある雷神山。ここを手薄にしたことが敗因の1つ。
激戦地となった稲荷山麓の古戦場跡には多数の慰霊碑が建っています。奥州街道を挟んで東軍と新政府軍の慰霊碑が建つ、白河市松並を訪ねました。
●会津藩士戦死の墓
白河口の戦いで戦死した会津藩士たちの墓碑には、大きく「戦死墓」と刻まれています。
●会津藩戦士墓、会津銷魂碑
銷魂碑には、横山主税以下304名の会津藩士の名前が刻まれています。題字は会津藩主・松平容保の筆。
●会津藩士、田辺軍次の墓
白河口の戦いの際、白川領の入口にあたる白坂村の庄屋・大平八郎が、新政府軍の道案内をし、新政府軍の劇的な勝利に貢献しました。八郎はこの功により、1万石の庄屋に出世します。
八郎の行いを恨んだ旧会津藩士の田辺軍次は、遺恨を晴らすために、戊辰戦争後の1870年、移封先の斗南から1ヶ月かけて白坂村にやってきて、八郎を討ち果たし、自らも切腹して果てました。21歳でした。斗南での暮らしの悲惨さが、若い藩士を仇討ちに走らせたのでしょうか。戊辰戦争がもたらした悲劇の1つといえましょう。
●長州・大垣藩六人之墓
道路を挟んだ向かい側には、新政府側の藩士の墓があり、長州藩と大垣藩の将兵6名が葬られています。1876年(明治9年)に明治天皇が立ち寄り、供養しています。
●円明寺橋
白河口の戦いに敗れた東軍の兵士たちには、残酷な最期が待っていました。その舞台となったのが、白河市街を流れる谷津田川に架かる円明寺橋です。
この橋の上で、稲荷山で捕虜となった東軍の兵士たちは、次々に斬首され、首も胴体もこの川に投げ捨てられました。川は「血染めの川」と呼ばれたそうです。橋のたもとには、処刑された兵士たちの霊を祀う「南無阿弥陀仏」の石塔が地元の人たちの手によって建てられました。
白河の町には、至る所に、白河口の戦いで戦死した兵士たちを弔う墓碑や、慰霊碑がありました。白河の城下町は、東軍と新政府軍の都合によって戦いの場にされてしまい、多くの住民が犠牲となりました。こうした状況にありながら、地元の人たちは、両軍の戦死者を分け隔てなく手厚く葬り、今も花を手向け、供養し続けているということを、今回初めて知りました。