本郷散歩その2
本郷三丁目そばから言問通りへと続く菊坂にいます。菊坂が本妙寺坂と交差するあたりから、菊坂の南側に、菊坂より一段低く、狭い「菊坂下道(したみち)」があります。下道に対して菊坂本体は「菊坂上道(うえみち)」と呼ばれ、上道と下道は、ところどころ階段でつながっています。その階段の脇に、宮沢賢治の居住地がありました。
●宮沢賢治居住地跡
宮沢賢治は、上京すると、ここ本郷菊坂75番地の稲垣の2階に6畳1間を間借りして、執筆活動をしていました。「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」などは、ここで書かれたものであると案内板で紹介されています。
菊坂下道の宮沢賢治居住地跡のすぐそばに、趣のある急な階段があります。
●炭団坂
炭団坂は、本郷台地から菊坂の谷に向って下る急斜面にある坂道で、かつては、「東京第一の急な坂」と称されたそうです。現在は、ご覧のように階段に整備されています。
坂の名前は、この界隈に炭団職人が住んでいたからとか、急な坂なので転ぶと炭団のように転がり落ちたからとか、言われています。
階段の脇には、坂の名前の由来となった炭団の実物がコロンと置いてありました。炭団は、炭の粉を固めた燃料のこと、なんてことは知識として知ってましたが、見たのは今回が初めて。
炭団坂を上りきると、日立本郷ビルがあり、その前に案内板があります。
●常盤会跡
炭団坂上のこの地には、坪内逍遥が住み、その後、旧伊予松山藩主の久松家が、松山の子弟の為の寄宿舎「常盤会」を建てました。
俳人正岡子規は、ここに寄宿し、大学予備門に通いました。子規が、炭団坂上の崖の上に立つ寄宿舎のガラス窓から、菊坂周辺を見下ろした風景を詠んだ歌があります。
ガラス戸の外面に 夜の森見えて
清けき月に 鳴くほととぎす
炭団坂を見下ろしたら、確かに急ですね。子規がここに住んでいた時、この急な斜面は、ほほとぎすの鳴くような林が広がっていたのでしょうか。
●樋口一葉旧居跡
炭団坂を下り、菊坂下道を北に歩き出し、左手の狭い路地を入っていくと、その奥に、樋口一葉の住まいだった場所があります。一葉が使ったかもしれないという古い掘り抜き井戸は、つるべ井戸から、手押しポンプの井戸に姿を変え、今も民家の玄関先にひっそりと残っています。
奥の石段を上ると趣のある木戸があり、両側には昔ながらの木造の家が建っています。どうやら、ここは袋小路ではなく、通り抜けるようになっています。石段を上がりきって高い石垣のある狭い路地を通り抜けてみると・・・
●金田一京助・春彦旧居跡
坂道の左手先に、金田一京助と春彦の住まいがあったことを記した案内板がありました。
京助は自分を頼って上京してきた、同郷の石川啄木の良き理解者となり、下宿(赤心館)などの世話をしています。
右手に下るこの坂道が、鐙坂です。ちゃんと正面から見ることにしましょう。
●鐙坂
タモリが絶賛する鐙坂。このシルエットじゃないと、「鐙」らしくないですね。
坂の名前は、高台から見た坂の形が馬に乗る時の鐙に似ているからとか、この界隈に鐙職人が住んでいたからとか、言われているようです。ここは、車が通れない、人の道。石垣が蔦の緑に染まる季節は、さぞ風情があるでしょうね。冬もそれなりに趣がありますが。
樋口一葉も、あの木戸から路地を抜けて、この坂道を何度も上ったり、下ったりしたのでしょうか。
鐙坂から菊坂に出ると、一葉ゆかりの伊勢屋質店があります。
●伊勢屋質店の土蔵
本郷菊里に借家住まいをしていた樋口一葉は、小説家を志しましたが、全く売れず、その生活苦から、この伊勢屋質店へ、しがなしに通っていたそうです。質屋の白い土蔵が今も通りに残っています。
蔵の前の案内板には、質屋通いの暮らしぶりを伝える一葉の俳句が紹介されていました。
蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ
我が家では衣替えした衣装が長持ちではなく、質屋にしまわれる・・・だなんて、切なさが伝わってきます。
●胸突坂
伊勢屋質店から、菊坂通りを言問通りに向かって歩き出すと、「山小屋」という喫茶店があり、そこから右手に上る坂があります。これが「胸突橋」。上から坂を見下ろしてみますが、名前ほど急な坂ではありません。
この界隈は、明治時代の下宿屋を旅館に模様替えした古い旅館が多く、胸突坂の上にある
鳳明館もその1つ。地元の人の話では、この風情ある木造旅館は、外国人観光客に人気があるそうですが、周辺は車が入れない狭い路地が多いため、この界隈に明るくないタクシーに乗って、近所で降ろされてしまい、困った様子の外国人をく見かけるそうです。
●徳田秋声旧宅跡
古い旅館や民家が狭い路地に立ち並ぶこの界隈に、徳田秋声の終生の住まいとなった家があります。板塀から業平竹を覗かせた風情ある建物には、現在も子孫の方が住んでいて、内部は非公開となっています。
徳田秋声旧宅のある小路を抜け出すと、石川啄木ゆかりの旅館があります。
●蓋平館別荘跡地
石川啄木は、金田一京助を頼って「赤心館」に下宿していましたが、下宿代が払えなくなると、金田一京助の下宿先の「蓋平館別荘」に転がり込みます。・・・困った人ですね。京助の助けで、ここの3階の3畳半の部屋に移り住み、創作活動を続けます。当時の建物は焼失し、屋号も「太栄館」と変わりましたが、跡地では今も旅館が営まれています。玄関先には、啄木の歌碑が残されています。
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
●新坂
「太平館」の前を通り過ぎると、菊坂に向って下る急な坂道があります。名前は「新坂」ですが、江戸時代に開かれた古い坂の1つ。
新坂を下り、菊坂に出ると、もうそのすぐ先は言問通り。言問通りには出ず、そのまま菊坂を本郷三丁目方向に戻り、樋口一葉ゆかりの地をもう1箇所訪ねます。
菊坂から本郷通りに出て、北に進むと、右手に東京大学の赤門が見えてきます。道路を挟んだ向かい側あたりの路地を入ると法真寺があります。
●樋口一葉「桜木の宿」跡地
法真寺の東側に、樋口一葉は4歳から9歳から住んでいたそうです。
短い生涯の中で幸せな時期を過ごしたこの家を、一葉は小説「ゆく雲」の中で「桜木の宿」と描き、懐かしんでいます。寺の石柱には、法真寺の桜の情景を描いた、一葉直筆の「ゆく雲」草稿プレートがありました。
境内には一葉塚もあり、毎年11月23日に一葉祭が行われるそうです。
本郷散歩の後半は、本郷通りの反対側に渡り、東京大学の赤門から出発。まだまだ散策は続きます。