10月の連休は、三河歴史散策を。
きっかけとなったのは、この夏の
長岡旅行。司馬遼太郎の小説『峠』の主人公・河井継之助ゆかりの地めぐりをしていた時、長岡藩主の牧野家が、三河出身の譜代大名であること、そして、その系譜を紹介する牧野一族展が、この秋、
豊川で開催されることを知り、三河の郷土史や古文書に詳しい義父を引っ張り出し(←専属学芸員さん状態)、出かけてきました。
◆『三河に興りし牧野一族』展
『三河に興りし牧野一族』と名付けられたこの展示会は、
豊川桜ヶ丘ミュージアムの15周年を記念した特別展。牧野一族は、戦国の動乱期、現在の豊川市牧野町を地盤として勢力を誇った土豪。戦国の世を生き抜き、牧野一族からは、越後長岡藩をはじめ、越後三根山藩、信濃小諸藩、常陸笠間藩、丹後田辺藩の5つの藩の藩主を輩出。展示会では、牧野一族の戦国動乱期から幕末に至る軌跡を、「五間梯子」の軍旗や、書など、各藩に残る資料とゆかりの品々とともにわかりやすく紹介しています。


戦国時代、牧野家は今川、武田、織田、松平(徳川)に挟まれ、常に緊張状態に置かれていました。徳川家と争った時代もありましたが、桶狭間の戦い後、徳川家の傘下に入ったことで、譜代大名としての地位を確実なものにしました。牧野右馬允康成は大胡藩主となり、大坂冬の陣・夏の陣でも戦功をあげた息子の忠成の時に、長岡藩7万4000石の藩主に出世しました。
●大胡藩牧野家(前橋)2万石 ⇒長岡藩牧野家(長岡)7万4000石
長岡藩初代藩主となった牧野忠成は、荒波を生き抜いた体験から「常在戦場」から始まる家訓「牛久保の壁書」を定め、歴代藩主は三河以来の質実剛健の藩風を受け継ぎました。
忠成は、また、領地の一部1万6000石と家臣団を次男と四男に分与し、支藩として立藩。それが「与板藩(後に小諸藩)」「三根山藩」の2藩です。
●与板藩牧野家(長岡)1万石⇒小諸藩牧野家(小諸)1万5000石
忠成の次男康成を分家し支藩として立藩。3代藩主は、5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院の弟の子を養子に迎えました(康重)。後に将軍となった綱吉とは、従兄弟にあたることから、加増され、城持ち大名となり、信濃国小諸に転封となります。嫉妬や批判を恐れ、表高は1万5000石となっているそうです。(実質は、3万石)
●三根山藩牧野家(新潟)1万1000石
忠成の四男定成を分家させたのが始まり。忠成の1代で2つの分家を立藩するのは、恐れ多いと、実質1万1000石の石高がありながら、表高を6000石としていた。幕末の11代藩主・忠泰の時に高を見直し、1万1000石として立藩。戊辰戦争に敗れ、困窮していた本家・長岡藩牧野家に、見舞いとして
米百俵を贈った話は有名。
●下総国関宿藩⇒三河国吉田藩⇒日向国延岡藩⇒笠間藩牧野家(茨城)8万石
忠成の弟・成儀を祖とする系統。2代成貞が、5代将軍徳川綱吉の側用人として幕政に関わり、関宿藩主となり、その後、加増、転封を重ね、5代貞道以降は代々笠間藩8万石の藩主に。戊辰戦争後は、領地召し上げとなった長岡藩の再興運動に力を注ぎました。
●武蔵国石戸藩⇒下総国関宿藩⇒田辺藩牧野家(舞鶴)3万5000石
こちらは、
牛久保六騎の流れを組む牧野讃岐守康成の系統。牛久保城主牧野氏の庶流の一つに過ぎなかったものの、家康の三河平定に寄与し、家康の信任を得て、譜代大名に上り詰めました。武蔵国石戸藩1万1000石から、段々に加増され、封地を移され、丹後田辺藩3万5千万石の藩主になり、廃藩まで治めました。

最初の展示室だけでも、充分な内容だったのに、隣、そのまた隣と、展示が続き、よくぞ分家の分まで細かく資料を集め、懇切丁寧に解説をつけたなぁ・・・と感心してしまいました。学芸員さんのこの特別展にかける意気込みと心意気が切々と伝わってきます。展示方法も随所に工夫があり、2時間かけてやっと駆け足で見て周ることが出来る内容。周辺の牧野氏ゆかりの史跡めぐりができるMAPももらえるので、そのまま散策に出かけられそう。見応えアリの、素晴らしい展示会でした。
●牛久保城址

長岡藩牧野家と家臣のルーツである牛久保には、かつて牛久保城がありました。城跡は、JR「牛久保」駅となっていて、踏み切り脇の広場に城址であったことを示す石碑と、説明版が建っています。
駅周辺に残る「大手」「城跡」「城下」等の地名が、かつて城下町だった名残を僅かにとどめています。


城下の古図に、幕末の長岡藩で活躍した、山本帯刀、稲垣家の名を見つけました!山本家は代々帯刀、勘右衛門を、稲垣家は平助を名乗っていました。どちらも、三河牛久保以来の家臣だったんですね。
●三河国分尼寺跡史跡公園
のどかな田園風景の中、唐突に、大きくて立派な朱塗りの門が、姿を現します。

これは、三河国分尼寺の中門と回廊の一部を復元したもの。柱材は、国産のヒノキを用い、柱はヤリガンナ仕上げ。屋根瓦は出土品にならい復元。総工費は3億数千万円かけて、奈良時代の建築様式を忠実に再現したそうです。
●長篠城址
長篠の合戦で有名な、長篠城。牧野家も徳川傘下として戦いに参加。

なんと、日本100名城の1つです。

3方を川に囲まれた平城。 土塀の上に上がると、お堀の跡が見えます。


本丸跡の広々とした原っぱでは、少年たちが野球。どことなく、昭和な香りが・・・。


すぐ脇を、JR飯田線が走っています。

長篠の戦の時の部隊配置図。酒井忠次に、戦いの勝機がかかっていたことがわかります。忠次の配下にあったのが、長岡初代藩主・牧野忠成の父・牧野康成。「戦績を上げて。譜代大名に列した」という説明がわかるような気がしました。

すぐ近くの設楽原古戦場には、長篠の戦いで、騎馬隊を防ぐために作られた馬防柵が再現されているとのこと。長篠の戦というと、鉄砲隊の投入と、馬防柵について語られますが、これらが戦いに有効だったのは、酒井氏、それを助ける牧野氏の活躍があってこそだったんですね。
●松平郷
帰り際に、徳川家のルーツといわれている松平氏の発祥の地・松平郷へ。

松平氏は、室町時代初期に三河の山間部の松平郷(現在の豊田市松平町)の領主だった松平太郎左衛門を祖とする豪族。太郎左衛門さん、銅像になっていました(^^ゝ
後に平野部に進出した松平氏の流れが、戦国大名に発展し、松平宗家となり、後に江戸幕府の将軍家に連なるのに対し、代々松平郷を継承した松平太郎左衛門家は、440石の旗本身分に留まりました。しかし、太郎左衛門家は、将軍家の始祖直系の家であることから「御称号の旧地」を守る役目として特別の格式をもって遇せられ、大名なみに参勤交代を許されました。(この石高で参勤交代。それはそれで悲喜交々があったようです。)

太郎左衛門の屋敷跡には松平東照宮が建てられています。

境内には、徳川家康産湯の井戸跡などの史跡があります。

まだまだ史跡はたくさんあるみたい。きょうは、これで時間切れ。