小千谷会談の決裂で、長岡藩の武装中立の夢が絶たれ、長岡藩家老・河井継之助は、開戦への決意を固めます。
◆前島神社 (長岡市)
小千谷会談の翌朝、河井継之助は、前島神社で、幼馴染であり、藩内で人望のある川島億次郎(三島億二郎)と会い、会談の結果と開戦への決意を伝えます。
政府軍(西軍)との開戦に反対する川島に対し、継之助は、二者択一を迫ります。
①自分の首と、西軍が要求する軍資金を
小千谷に届け、西軍に降伏
②会津と一緒に西軍と戦う
西軍に降伏したとしても、会津への先鋒となることは避けられず、西軍か会津かどちらかと戦うことになります。命をかけて藩を救おうとする継之助の悲壮な決意を聞いた川島は、継之助と運命を共にする決心をしたと言われています。
境内には、ここが「開戦決意の地」であることを示す石碑が、建てられています。
◆長岡藩本陣跡 光福寺 (長岡市)
開戦を決意した継之助は、旧三国街道の摂田屋にある光福寺の本堂に藩士達を集め、「開戦やむなし」と徹底抗戦を宣言します。開戦に反対派の藩士たち、継之助の隣に川島がいるのを見て、開戦を決意したと言われています。
長岡藩は、長岡城の南方4キロに位置するここ摂田屋の光福寺に、本陣を置いて防戦態勢を整え、奥羽越列藩同盟の先陣を切って、北越戊辰戦争へ突入します。
◆旧三国街道
摂田屋のある旧三国街道沿いは、酒、味噌、醤油などの醸造業がさかんな地域で、江戸時代は、天領に組み込まれていたそうです。参勤交代の要路でもあり、殿様街道の別名を持っています。今も昔ながらの街並みが残っています。
旧三国街道を行く旅人たちが道中の無事を祈ったというお地蔵様の足下には、「左ハ山道」「右ハ江戸」という道標があります。商売繁盛を祈った竹駒稲荷に祀られたお狐さまは、いかにもご利益がありそうな笑い顔が印象的。中越地震で、アゴと尾が損傷し、修復された跡が痛々しい。