7月19日(日) つづき
本州最東端の尻屋崎から、下北半島の付け根にある野辺地へ向かいます。ここからは一旦斗南を離れ、同じ青森内の南部と津軽のお話を。
同じ青森にありながら、南部と津軽とは、気質も風土も文化も異なり、古くから諍いは枚挙に暇がないと言われています。陸奥湾に面した野辺地は、南部藩の商港として栄えた港町。隣り合う津軽藩との境界に位置することから、町には興味深い史跡が残っています。
◆馬門番所
野辺地町を通る国道4号沿いに、南部藩の馬門番所にあった高札が復元されています。江戸時代、津軽は狩場沢に、南部は馬門に口留番所を設け、旅人の出入りを取り締まっていました。覚と書かれた高札には、武具類や鉄製品、染料、蝋、漆、金属、火薬、人、牛馬などを手形なしに南部領内から他へ持ち出すことを厳しく禁じています。違反者を捕らえて召し出すと「御褒美としてその持料を下さる」と記されています。
◆藩境塚「四つ森」
浜の方へ降りると、かつて津軽藩と南部藩の境界となった二本又川という堰があります。陸奥湾に向かって、堰の右側が南部藩領、左側が津軽藩領。
津軽藩側には「従是西北津軽本次郎領分」、南部藩側には「従是東南盛岡領」とあります。
小さな堰を挟むように、古墳のような円錐状の土盛りが、2つずつ、境界の目印として、お互いを牽制し合うように、4つ築かれています。
いやぁー面白い。津軽藩と南部藩の藩領を分ける藩境塚は、先に南部藩が作り、対抗上止むを得ず、津軽藩も後から作ったのだそうです。
司馬遼太郎の著書「街道をゆく3陸奥のみち」でも紹介されていますが、私も、こんなの、見たの初めてです。江戸時代当時はともかく、良くもまあ、こんなものがそのまま残っているなぁと。
この小さな堰は、今も野辺地町と隣の平内町の境となっています。
南部と津軽、2つの異なる文化の接点でもあり、両者の対抗心の象徴でもある、静かな陸奥湾の海辺の風景は、とてものどかでした。
◆野辺地戦争墓地
この藩境で、戊辰戦争の1つである野辺地戦争がありました。奥羽越列藩同盟から抜けて官軍側についた弘前藩が南部藩を侵攻。しかし結果は弘前藩の潰走に終わります。
藩境塚から野辺地町側へ数キロのところに、弘前藩の犠牲者27人の名を刻んだ4つの墓石が建っています。戦争の翌年、弘前藩が建立したそうです。負けても官軍。すぐに供養できたんですね。 ・・・と官軍には冷たい私(^^ゝ