◆金戒光明寺
最初に訪れたのは、浄土宗大本山で、地元では「黒谷さん」と呼ばれている
金戒光明寺です。ここが、京都守護職に着任した会津藩主・松平容保が、本陣を置き、会津藩士たちが駐屯した場所です。
岡崎通を北に進み、案内板に従ってT字路を右折すると、高麗門が見えてきます。お寺の門というより、お城の門のような佇まい。門の正面左手には「会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣」の看板が掲げられ、右手には「会津藩殉難者墓所」と刻んだ石碑が立っています。あぁ、ここに、本陣があったんだ・・と実感が湧いてきます。
御影堂
高麗門から敷地内に入り、長い石畳の参道を進むと左手の小高い丘の上に見事な山門が現れます。急な石段を登り切って、山門をくぐると、境内があり、正面に御影堂が見えてきます。
熊谷直実 鎧掛けの松
幕末の会津とは、関係ありませんが、光明寺は、歌舞伎の「熊谷陣屋」でおなじみの、熊谷次郎直実が出家したお寺だそうです。境内の御影堂の脇には、直実が出家をする際に洗った鎧を掛けたという言い伝えのある「鎧かけの松」がありました。
方丈
京都守護職本陣の中枢となった場所。容保が新選組と謁見したのも、この中の一室なのだそうです。普段は公開されていないのが、残念!
清和殿
ここが、会津藩士1000人の住まいとなった場所。広いです。容保が、京都守護職を務めた5年の間、この場所が会津藩の本陣となり、藩士たちが駐屯しました。
文殊塔(三重塔)
阿弥陀堂の裏手にあたる東側の山の斜面は墓地となっています。墓地の中の石段を登った先の見晴らしの良い高台からは、晴れていれば、京都市内を一望できるそうです。まさに自然の要塞とも言える立地。ここに立つと、徳川幕府が、西の知恩院、東の金戒光明寺を有事があった際に軍隊を配置する城郭として使えるようにしていたという説にも、なるほど・・という感じがします。
この高台には、2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うために建立した文殊塔という三重塔が建っています。秀忠といえば、会津松平家の始まりに関ったご当人。会津藩の藩祖・保科正之は、秀忠と乳母の侍女に間に生まれた子供です。容保がどうしてここに本陣を置いたのか・・。秀忠にゆかりのある場所であったことは、1000人の藩士が収容でき、京都御所や二条城に近く、防衛しやすい・・・という立地条件と合わせて、大きな決め手の1つになったのではないか・・・と思ってしまいます。
会津藩墓所
光明寺の敷地内にある広い墓地の、1番奥の、北のはずれに、ひっそりと「会津藩殉難者墓地」と刻まれた石碑が建っています。ここに、故郷会津に戻ることなく、この地で果てた会津藩士たちが埋葬されています。
京都を守るために会津からやってきた藩士達は、時代の大きなうねりの中で賊軍扱いされ、鳥羽伏見の戦いで敗れると京都を追放されます。新政府軍は、戦死した会津藩士の遺体の動かしたり埋葬することを禁じたため、遺体はそのまま放置されていたそうですが、見かねた人の手によって、密かに遺体が収容され、ここに埋葬されました。
墓碑の裏に刻まれた年号を見ると、墓碑が建てられたのは、明治も後期に入ってから。それまでの間は、密かに供養されていたのでしょう。今もここを供養に訪れる人が絶えないのか、鶴ヶ城の写真を供えた墓前は、綺麗に掃き清められ、蝋燭には火が点り、綺麗なユリの花が供えられていました。
墓碑の脇に、容保の孫娘で、秩父宮妃殿下となられた勢津子さまによる松の木の植樹と記念碑がありました。勢津子さまは、京都に眠る会津藩士たちの元も訪ねられていたのですね。
容保の詠った短歌が残されています。
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こえさへきよし 窓の呉竹