東京の台所、築地市場は、明治時代、海軍施設が多く立ち並ぶ海軍の街でした。
●築地海軍繰練所跡築地が軍事拠点として変貌したきっかけとなったのは、ペリーの黒船来航です。西洋式海軍の必要に迫られた江戸幕府は、築地に軍艦操練所を作りました。晴海通りには、築地に海軍操練所があったころを記す案内板が建っています。


明治政府は、松平定信邸を中心とする大名屋敷を海軍用地とし、旧尾張藩邸に海軍本省を置きました。松平定信邸の築山は「海軍卿旗」が掲揚されたことから「旗山」と呼ばれるようになり、日本海軍発祥の地として歴史に刻まれることとなりました。その後、築地には、海軍兵学校や海軍病院など、次々と海軍の施設が作られ、海辺の風景は一変しました。
●海軍兵学校跡(海軍兵学校跡)築地の国立がんセンターの駐車場の出入口に「海軍兵学寮跡の碑」があります。

石碑の裏側には、海軍兵学寮、海軍兵学校の沿革が次のように記されていました。
明治四年七月二九日 海軍兵学寮を此地に新築す。
同九年八月三十一日 海軍兵学校と改称す。
同二十一年八月一日 江田島に移転す。


「海軍兵学寮」は、広島藩邸跡から移転後、「海軍兵学校」に改名。多くの海軍士官候補生を輩出しました。日露戦争の連合艦隊司令長官東郷平八郎やその時の海軍大臣山本権兵衛も海軍兵学寮の卒業生。『坂の上の雲』の主人公・秋山真之も築地にあったこの海軍兵学校で学びました。文明開化の街・銀座に近く、次第に賑やかになっていく築地が教育にふさわしくないとされ、真之在学中の1888年(明治21年)に海軍兵学校は、広島県江田島に移転しました。
●築地水交社跡水交社は、海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体。八代六郎大佐は、築地の水交社の催しに訪れていた稲生季子を気に入り、当時海軍大学校教官だった真之に紹介。後に2人は結婚します。

●勝鬨橋勝鬨の名は、日露戦争の勝利を記念して、築地と月島間に新たに設けられた渡し場である「かちどきの渡し」に由来しています。

橋のたもとには、このときに建てられた記念碑や、海軍経理学校跡地だったことを記す石碑がたっています。



千代田区観光協会のWebサイトで『
坂の上の雲の世界を歩く』なるページと、さらに詳しい『
千代田区を駆け巡る、坂の上の雲』を参考に、東京散歩をしたお話の続き。
●北の丸公園太田道潅によって創られた江戸城は、徳川家康の居城となり、大城郭としての形が整えられました。

田安門は、北の丸北部にある枡形門で、現存する唯一の建物です。

田安門から南北を貫くように西側一帯を徳川御三卿の田安家、東側一帯を清水家が所有していました。

明治維新後、北の丸には近衛兵営をはじめ陸軍関係の施設が置かれました。
●近衛歩兵第一連隊記念碑 日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設。1874年(明治7年)1月23日に、明治天皇から軍旗が授与されました。

西南戦争時、近衛歩兵第1連隊の中隊長だった寺内正毅は、山縣有朋を頂点とする長州閥の事務総長的な存在。『坂の上の雲』では、秋山好古が上京して士官学校の願書を提出する場面で、生徒指令副官の大尉として登場。試験に合格した好古を「
道具屋の手代のような目でながめ」体格を見込んで「
騎兵ならうってつけ」と騎兵科に編入させる人物として描かれています。
●近衛歩兵第2連隊記念碑 
近衛歩兵第2連隊の歴代の連隊長の中に、桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」と称される川上操六がいます。『坂の上の雲』でも、優秀な作戦家として描かれています。日露戦争の作戦計画も川上に委ねられていましたが、過労のため急死し、児玉が川上の仕事を引き継ぐことになりました。

●旧近衛師団司令部庁舎 北の丸公園の南端の千鳥ヶ淵沿いの緑の森に佇む、重厚な雰囲気の赤レンガ造りの建物が旧近衛師団司令部庁舎です。1910年(明治43年)に陸軍技師田村鎮の設計によって建設されました。

「日本騎兵の父」と云われた秋山好古が、近衛師団長時代、ここに勤務していました。

関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。外観、正面ホール、階段などに、瀟洒な明治の雰囲気が。


煉瓦の積み方は、長辺だけの段と短辺だけの段を交互に積み重ね、崩れ難いとされるイギリス積み。飾り柱は、典型的なコリント式。


外壁下部の通気口に、陸軍を象徴する星の形が施されています。


現在は、東京国立近代美術館工芸館となっています。

●北白川宮能久親王旧近衛師団司令部前には、北白川宮能久親王の騎馬像があります。公家でありながら、彰義隊に連ね、戊辰戦争の際は奥羽列藩同盟の盟主として擁立され、官軍と戦います。明治2年に赦された後は、陸軍に籍をおき、近衛師団長にもなっています。

●紀伊国坂北桔橋門を出ると「紀伊国坂」に出ます。かつて坂脇には徳川御三家の尾張徳川家、紀伊徳川家の両屋敷がありました。


坂を下ると竹橋です。お濠越しに平川橋が見えます。
偶然見つけた『
坂の上の雲の世界を歩く』なるWebサイト、

こちら、千代田区観光協会が運営するWebサイトで、さらに詳しい地図と解説をつけた『
千代田区を駆け巡る、坂の上の雲』という素敵なページもあります。・・・という訳で、9月の連休の前半は、ぷらぷらと、東京散歩をしてきました。
●東郷通り市ヶ谷駅のA3出口から靖国通りに出て、すぐ目の前の「東郷公園入口」という信号を右折すると、「東郷通り」の標識が目に入ります。日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ「東洋のネルソン」と称えられた連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥は、その名を地名や公園名に残しています。
●東郷元帥記念公園東郷通りを進むと、東郷が53年間暮らした屋敷跡を整備した「東郷元帥記念公園」があります。


園内には、公園の沿革を紹介する石碑と、玄関脇にあったというライオン像があります。このライオン像は東郷の米寿の祝いに贈られたものだそうです。ロンドンのトラファルガー広場に建つ、ネルソン提督像を囲んでいるライオン像がモデルになっているのでしょうか。

●靖国神社靖国神社を九段下方面に歩き、靖国神社へ。大石燈籠の下に、日露戦争のレリーフがあるとのことでしたが、残念ながら燈籠は修復中。フェンスに囲まれていて見る事ができませんでした。

気を取り直して遊就館へ。ちょうど「スポーツと靖国神社」展が開催中で、柔道の達人でもあった広瀬武夫ゆかりの品々(手紙、血染めの海図など)を見る事ができました。


広瀬武夫は、秋山真之の海軍兵学校の先輩で、日露戦争の旅順閉塞作戦で戦死します。沈み行く船から退船する時に、いなくなった部下(杉野孫七上等兵)を捜し回り、脱出用のボートに戻ったところを被弾した最期の姿を称え、後に軍神と呼ばれるようになりました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、次のように描かれています。
探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。そのとなりにすわって舵をとっていた飯牟礼ですら気づかなかったほどであった。
●大山巌像 靖国神社を靖国通りを挟んだ向かい側にある九段坂公園に、騎馬姿の大山巌像が建っています。大山巌は、日露戦争での満州軍総司令官として陸軍を勝利に導きました。
いくさのさしずはすべて児玉サンにまかせます。ただ、敗けいくさになったときは私が出て指揮をとるでしょう ( 『坂の上の雲』より)
司馬遼太郎は、大山の将としての大きさを、
大山という人物は「勝っているときは、私は必要がない」と、心からおもっている人なのである と評しています。
余談になりますが、大山の妻・捨松は、会津藩家老・山川大蔵(浩)の妹。戊辰戦争で鶴ヶ城を砲撃した薩摩藩将校・大山との結婚に、籠城戦を戦った山川は大反対。「ウチは賊軍の家臣なので」と丁重に断られた大山は、西南戦争を引き合いに「僕も賊軍の身内です(大山は西郷隆盛の従兄弟)」と返答、結婚を認めさせた逸話があります。
●弥助砲大山巌像のある九段坂公園のすぐ近くにある九段下交差点の交番脇に、大山巌ゆかりの品が残っています。レンガの柵の上にポツンとあるのは、薩摩藩の砲兵隊にいた頃に考案した大砲の砲身だそうです。明治初期に生産されたこの大砲は、大山の旧名弥助から取って、通称「弥助砲」と呼ばれています。
●蕃所調所跡そのすぐ近くの昭和館横に、ペリーの来航以後幕府が設立した洋学研究機関「蕃所調所跡」の案内板が建っています。蕃所調所は、その後一ツ橋御門外に移転し、正岡子規や秋山真之が入学を目指した、東京大学へと発展します。
●東京大学発祥の地・東京大学予備門跡学士会館前に「東京大学発祥の地碑」が建っています。九段下にあった蕃書調所がこの地に移転し、開成所、大学南校と名前を変え、明治10年(1877)東京大学と改称しました。敷地内には、正岡規子と秋山真之が通った「東京大学予備門」がありました。東京大学は8年後に現在の本郷に移り、予備門も移転します。

●野球発祥の地碑学士会館の敷地内に、野球のボールを握った手の記念碑があります。日本に野球を伝えたとされる故ホーレス・ウィルソン氏の野球殿堂入りを記念して2003年に建立されたモニュメントだそうです。この地にあった大学予備門に入学した正岡子規は、ベースボールに興じ、幼名の「升(のぼる)」をもじって「野球(の・ぼーる)」という雅号を使ったこともあるとか、ないとか。子規は、野球の普及に貢献したことが評価され、没後100年の2002年に野球殿堂入りを果たしました。



『坂の上の雲』からは外れますが、学士会館のある場所は、同志社を建学した新島襄の生誕の地でもあり、石碑が建っていました。新島譲といえば、妻は、旧会津藩士の娘の旧制・山本八重。戊辰戦争の鶴ヶ城籠城戦の際は、断髪・男装し、スペンサー銃を持って奮戦したことで知られています。2013年の大河ドラマの主役。
●共立女子職業学校学士会館のある神保町界隈は、明治時代、新文化教育の中心地でした。正岡子規の妹・律が、子規が亡くなった翌年に入学した共立女子職業学校は、現在、共立女子学園とになっています。律は、和裁の専門教員となり、退職後は裁縫教室を開き生計を立てながら、子規の遺品と子規庵の保存に努めました。

●日本新聞社跡地下鉄小川町駅のA6出口付近に、小川町がかつて雉子町と呼ばれていたことや、当時の町の様子を説明する案内板があります。この中には、この界隈に、正岡子規の面倒を見た陸羯南が主筆兼社長を務めた「日本新聞社」があったことも記されています。
そのころ「日本」新聞は神田雉子町の路地裏にあった。路地を出ると、両側が赤レンガ造りの店舗で、その表通りをつききると、「中川」という牛肉屋がある。 (『坂の上の雲』より)
子規は、新聞社につとめていることを気に入っていたらしい。とくに、陸羯南の「日本」新聞の社員であることに満足していた。子規は、日本新聞社時代に俳人として大きく成長。俳論を「日本」に書き続けることが、子規一生の事業でもありました。生前に書いた墓碑銘も次のように結んでいます。
「 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□月給四十圓」
2月26日(土)
●熊本大学五校記念館西南戦争後、明治政府は、国家の柱石となる人材の養成しようと、全国5地区に旧制高校を設立します。九州地区に開校したのが、熊本大学の前身となる旧制第五高等学校です。石材と赤煉瓦を組み合わせた立派な「赤門」が、今も堂々とした姿を見せています。

秋月胤永五校で教鞭を取った教師の中に、旧会津藩士の
秋月胤永(通称・秋月悌次郎)がいます。五校に着任した時は既に67歳でしたが、、「剛毅木訥近仁」を合言葉に、倫理・国語・漢文を講じ、その高潔な人格は、生徒だけでなく同僚の教師からも敬慕されました。

その1人が、同じ時期に英語教師として共に教鞭を取った、
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)です。
秋月の生涯を描いた小説
『落花は枝に還らずとも』(中村彰彦著)では、「
秋月先生のそばにゆけば、ファイヤー・サイドに行った気持ちがする」「
神様のような人」と秋月を賞讃するハーンの姿が描かれています。
センターサークルの奥に、赤煉瓦の赤が鮮やかな2階建ての本館が見えてきます。

かつての五高の校舎です。現在は、
記念館として、内部を公開しています。
坂の上の雲当時の近代建築を代表する記念館は、映画やテレビドラマのロケ地にもなっています。NHKのドラマ『坂の上の雲』もその1つ。陸軍大学校が招聘したドイツの陸軍少佐メッケルを陸軍参謀本部次長の児玉源太郎が出迎えるシーンで登場します。
児玉源太郎その児玉源太郎、西南戦争時は、20代半ばでした。『翔ぶが如く』では、熊本鎮台准参謀だった若かりし頃の児玉が登場。神風連の乱を鎮圧し、熊本城籠城戦では、鎮台司令長官の谷干城少将を補佐して、薩軍の猛攻をから熊本城を護り切る。その知将ぶりが一躍知られるところとなり、頭角を現していく様子が描かれています。

児玉に限らず、『翔ぶが如く』と『坂の上の雲』では、
登場人物の多くが重なっています。、『翔ぶが如く』には、『坂の上の雲』で日露戦争を指揮する立場の人たちの20数年前の姿があります。司馬遼太郎が描く人物像にはブレがなく、良くも悪くも、若い頃からこの人はこういう人だったのか・・・と妙に納得させられる場面が、多々。どちらの作品も長編ですが、一緒に読むと、面白さ倍増です。
まことに小さな国が開花期をむかえようとしているという書き出しで始まる司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』。NHKのスペシャルドラマのナレーションもその言葉から始まったのが印象的でした。第一部の放送を機に作品を読み直したこともあり『坂の上の雲』熱が持続中。・・という訳で、主人公の秋山真之が連合艦隊参謀として乗り組んだ「記念艦三笠」を見に横須賀に出かけてきました。

JR「横須賀」駅から徒歩20分。三笠公園内に入ると、三笠を背に建つ、連合艦隊を指揮した東郷平八郎司令長官の像が目に入ります。その脇には、かの有名な「皇国興廃在此一戦」の石碑があります。東郷司令長官は、バルチック開戦との開戦に際し、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の意味を込めたZ旗を三笠に掲げ、士気を鼓舞したとされています。記念艦三笠にもZ旗が掲げられています。

三笠は日本海海戦の旗艦として活躍しましたが、戦後、火薬庫の爆発で沈没。その後修復され、1926年(大正15年)に記念艦として保存されました。

全長は122メートル。艦首にある菊の紋章があります。思ったよりも小さな戦艦。これが世界史の流れを変えたんですね。

艦内には、日露戦争の資料や写真などが多数展示。甲板上では主砲を見たり艦橋に登ったりすることで、戦艦の雰囲気を味わうことができます。

艦橋の下に、厚さ35cmの鉄壁で覆われたドームのような部屋があります。ここは、戦闘時の操舵室(司令塔)。敵の砲弾から身を守って指揮ができるようになっています。
ちなみに東郷は艦橋から一歩も動かず、ここで指揮することはなかったそうです。
梯子のような細い階段を何段も上ると、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で 「高所恐怖症の者なら気が遠くなるような露天台」・・と表現した艦橋に辿り着きます。・・・かなり高いです。ここから伝声管を使って全艦隊に指令を伝えたのですね。

床板には、司令官の東郷、参謀の秋山などの立ち位置がプレートで示されています。


下を見下ろすとこんな感じ。甲板と前部主砲が見えます。なかなか堂々とした眺め。

目の前には東京湾が広がります。

艦内では、特別展「秋山真之と正岡子規」も開催していて(ここは撮影不可ゾーン)、2人の交流の深さを示す、若き日の写真や直筆の手紙どの展示があり、『坂の上の雲』の世界を楽しむことができました。
その他にもゆかりの地が。
寝ぼけ眼で読んでいた朝刊の片隅に「
姫路文学館で司馬遼太郎の小説『峠』の自筆原稿を公開」との記事を見つけた3月某日、姫路まで出かけてきました。
●姫路文学館姫路文学館は、JR「姫路」駅から徒歩20分。姫路城北西の静かな住宅地にあります。播磨地方に縁のある文学者の資料を収集展示する文学施設で、高低差のある敷地内には、北館、南館が建ち、その広さにまず驚かされます。

まずは、企画展「が開催中の北館2階へ。

『峠』は、幕末の激動を駆け抜けた、越後長岡藩家老・河井継之助の生涯を描いた長編小説で、1966年11月から1968年5月にかけて毎日新聞に連載されました。
司馬が『峠』の連載中、担当編集者として毎日原稿を取りに行き、取材にも同行したのが、司馬と大学の同期生だった姫路出身の俳人・赤尾兜子です。

連載後の原稿は赤尾が保存し、その死後も遺族が保存していましたが、2009年に赤尾と司馬に縁の深い姫路の文学館に寄託。今回が初公開となった自筆原稿は、当時の掲載紙面と並べて展示され、『峠』の世界が創られていく様が楽しめる内容となっています。
この企画展では、司馬と赤尾、2人の友情にも注目。司馬が20年ぶりに再会した赤尾に送った直筆の葉書、毎日原稿を取りに来る赤尾に宛てた置き手紙、赤尾が「現代俳句協会賞」を受賞時に一緒に撮った記念写真なども展示し、『峠』の連載をきっかけに作家と担当編集者として再会した2人が、親交を深めていく様子も紹介しています。どれもこれも見応えあり。わざわざ姫路まで足を運んだ甲斐がありました。

そして、スロープと階段を下って、南館1階へ。ここには「司馬遼太郎記念室」があります。司馬遼太郎は祖父の代まで姫路だったこともあり、播磨ゆかりの文学者ということになるのかしら。記念館では、司馬作品と播磨との関わりを中心に、司馬遼太郎の作品とその生涯を資料や生前の映像などを使って紹介しています。
姫路文学館は、円形の回廊式のスロープを散策しながら、施設を見学する造り。大阪の司馬遼太郎記念館、松山の坂の上の雲ミュージアムに通じるものがあります。3館とも建築家・安藤忠雄の設計・・・と聞いたら納得です。北館のスロープを上がると姫路城の天守が現れます。


そして展望台まで上がると、小天守を従えた大天守、櫓を回廊のように結ぶ西の丸長局が眺望できます。改修工事が始まり、城の右横には、クレーンの姿が。




敷地内に移築された大正期の日本家屋『望景亭』からも、姫路城を見ることができます。こちらは庭園から見た姫路城。その眺望は、桜や紅葉で木々が色付いた季節には、さぞ風情があるんでしょうね。
姫路文学館では、司馬遼太郎の特別展や記念館、それに北西側からの姫路城の眺望を楽しむことができました。あっという間の2時間でした。
そろそろお昼の時間。姫路城、姫路駅へと戻りましょう。
石だたみ通りてくてくMAPを片手に、古い町屋、城の外濠沿いに整備された千姫の小径など、周辺を散策しながら、帰路へ。
さぁ、お昼ご飯だ!
2月12日(金) 旅の2日目
弘前に来たら訪ねたかった場所の1つが、幕末の志士・吉田松陰が東北遊学の際に訪ねた、伊東広之進(梅軒)の旧宅です。吉田松陰の足跡を辿るのは、司馬遼太郎著の「世に棲む日日」を片手に山陰を
旅行した5年前の冬以来。降り積もる雪を踏みしめ、城下町に残る松陰のゆかりの地を訪ねました。
●養生学園 松陰室
吉田松陰が訪れた伊東広之進(梅軒)の旧宅は、弘前城下南の元長町、青森銀行記念館の裏手の「
養生幼稚園」という明治以来続く幼稚園の敷地内に残っています。

写真が建物の外観。事前に養生幼稚園に問い合わせをして、予約をした人だけが、屋敷の中を見学をすることができます。門前で呼鈴を鳴らすと、事務室から職員の方が出てきて、中を案内して下さいました。


ここが、松陰と梅軒が会談した座敷です。


北方の防備を憂いた松陰は、梅軒に津軽藩の軍事や教育について質問し、国事について談義したとされています。2人は意気投合し、吉田松陰は、弘前を去る前に再訪し、返礼に詩を残しています。
男児北夷陲を略せんと欲す、
いかにせん吾に百萬の師なきを
なお忻ぶ 半日高堂の話、
幸に此の行為に一奇を添えしを
部屋の襖には、吉田松陰の『東北遊日記』の写しが大書きされています。

松陰室の壁には、ここを訪ねた著名人が残した書がいくつも飾ってあります。

左は、松陰門下生で明治維新の原動力となった後の総理大臣(で薩長派閥支配をした)山縣有朋の「半日高堂話」の扁額。
津軽出身の中村良三海軍大将(左下)、一戸兵衛陸軍大将(右下)の書もあります。薩長閥支配の時代に、津軽から2人の大将が出たんですね。


目を惹いたのが、津軽出身の明治の言論人で新聞「日本」主宰者・陸羯南の書です。

陸羯南は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の中で、正岡子規の良き理解者で、子規を終生面倒みた人物として描かれ、子規に「あの人ほど徳のあったひとはない」と語らせています。羯南は、この部屋で、有名な五言絶句「名山出名士」を書きました。
名山出名士 此語久相伝 試問巖城下 誰人天下賢「名山の下からは、名士が生まれると、古くから言い伝えられているが、岩木山巖の城下町から、そのような立派な人物が生まれただろうか」と、郷土の若者を叱咤激励する意味が込められているそうです。この詩の掛け軸は、松山の
坂の上ミュージアムで「新聞日本と子規」展(2010年3月~2011年2月開催)で
公開が始まったところ。気になります。
最後に、忘れてはならないのが、陸羯南の幼馴染であり、松陰と梅軒が会談したこの屋敷を買い取り「松陰室」として保存した伊東重です。伊東家は、梅軒の隣家で代々藩医を務めたお家柄。弘前城北の武家屋敷保存地区に移転・復元されていた「
伊東家の住居」の伊東さんです。養生幼稚園の隣の敷地では今も病院が営まれています。


伊東重は、財産と健康、精神を養うことの大切さを説く「養生哲学」を提唱し、養生幼稚園を設立。明治以来続く、養生幼稚園の子供たちは、卒園前、吉田松陰ゆかりのこの座敷で、自分たちが歴史ある場所で育ったことを教えられ、卒園していくのだそうです。
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●旧伊東広之進の元屋敷「松陰室」
住 所:弘前市元長町19 養生学園 養生幼稚園内
電 話: 0172-32-7507
最寄駅:JR「弘前」駅徒歩30分、弘南バス「市役所」バス停徒歩8分
見 学:9:00-16:00 土日祝休 入館料100円
備 考:あらかじめ予約の連絡した場合のみ見学可能
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2009年は、『
坂の上の雲』はじめ、『街道をゆく』シリーズなど、司馬遼太郎作品をあれこれ読んで旅した1年でした。2009年の締め括りに、大阪にある
司馬遼太郎記念館に行ってきました。

近鉄『八戸ノ里』駅から徒歩数分。静かな住宅街の一角に、記念館があります。司馬遼太郎が執筆活動を続けた自宅の敷地内に建っています。ボランティアの人が、門の前に立っているので、すぐわかります。入口の右手には、記念館の、左手には、司馬遼太郎自筆の表札がかかっています。





敷地内は、司馬遼太郎が好きだったという、雑木林のイメージで造られた庭が広がり、その庭が良く見える場所に書斎があります。書斎は、サンルームのようになっていて、蔵書に囲まれた室内の様子を、庭から窓越しに見ることができます。
ここから、数々の作品が生まれたのですね。
書斎の書棚には、未完に終わった『街道をゆく 濃尾参州記』の執筆のために集められた参考資料などが、当時のままに並んだ状態で残してあります。
庭の一角には、花供養の碑も建っていて、その脇には、司馬遼太郎が愛した菜の花の苗が、植えてありました。

庭の小道を先に進むと、安藤忠雄設計の記念館があります。ループ状のガラスの回廊を通って、庭の木々を眺めながら入口へ。中はどういう風になっているんだろう・・・という気分が高まる、素敵なアプローチになっています。私たちが訪れた時は、ちょうど『坂の上の雲が書かれた書斎風景とその時代展』という企画展が開催中でした。


展示室は、司馬遼太郎がこれまでの作品を書くために集めた膨大な数の蔵書が、地下1階から地上2階の吹き抜けの書棚に収まっていて、それは、壮観。企画展のコーナーでは、私が好きな「雨の坂」の章の構想メモなどが展示してあり、「坂の上の雲」ファンとしては、たまらないものがありました。
この記念館は、司馬遼太郎を感じることができる施設。建物は、周囲の自然に溶け込み、敷地の狭さを感じさせない、開放感のある造りで、松山にある
坂の上の雲ミュージアムと雰囲気が似ています。限られた条件で、テーマに沿った心地良い空間を作り出しています。何時間でもまどろんでいられそう。どちらも安藤忠雄の設計。いい仕事してます。

せっかくなので違う道を歩いてみようと、帰りは、近鉄『河内小阪』駅に出ることにしました。

駅へ向かう途中にある公園に、司馬遼太郎が、小学6年生の国語の教科書のために書いたという「21世紀に生きる君たちへ」の文学碑がありました。

ショッピングアーケードを抜けると近鉄『河内小阪』駅です。こちらも記念館から徒歩数分。司馬遼太郎ファンなら1度は訪れたい場所です。
小雨の降りしきる休日。東京・三鷹の井の頭自然文化園へ。三鷹駅南口から、沿道に桜並木が続く「風の散歩道」を井の頭公園に向かって歩きます。

この界隈には、太宰治ゆかりの地、山本有三記念館、三鷹の森ジブリ美術館などが点在。雨の中の散策も、なかなか風情があります。

駅から10分。万助橋を左折すると少し先に井の頭自然文化園の入口があります。北村西望の彫刻が点在する公園の静かな林を奥に進むと、2棟の彫刻園とアトリエがあります。
北村西望は長崎の「平和祈念像」の作者で知られる彫刻家。昭和初期には、陸軍からの依頼で日露戦争で活躍した軍人の彫像をいくつも制作。『坂の上の雲』でおなじみの人々の彫像も手がけています。
●児玉源太郎参謀本部次長として、日露戦争全体の戦略の立案、満州での戦闘指揮、戦費の調達など、日露戦争を実質的に指揮した知将。 司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、乃木希典と対照的に、有能な武人として描いています。作品中の児玉源太郎に関わるエピソードの中で、特に印象に残っているのが、旅順で悪戦苦闘する乃木希典の元に駆けつけ二〇三高地を落とすと、その後乃木を誘って詩会を設け、漢詩を詠み合う・・・という場面。テレビドラマではどういう風に演出されるのでしょう。


●山懸有朋日露戦争の参謀総長。人事において長州閥に偏重した山縣ですが、司馬遼太郎は「ものごのについてのかんと理解力がどうやら人よりもすぐれていたらしく」「かれにおいて発達していたのは人物の選定眼であった」と評しています。
『坂の上の雲』の中では、フランス式騎兵を学んだ秋山好古に注目し、日本の騎兵建設の全てを任せる重要な人物として、描かれています。
●寺内正毅
寺内正毅は山縣有朋を頂点とする長州閥の事務総長的な存在。司馬遼太郎は、乃木同様、軍人として「無能」呼ばわりしています。
『坂の上の雲』での登場は早く、秋山好古が上京して士官学校の願書を提出する場面で、生徒指令副官の大尉として出てきます。試験に合格した好古を「道具屋の手代のような目でながめ」体格を見込んで「騎兵ならうってつけ」と騎兵科に編入させる人物でもあります。日露戦争でコサック騎兵と死闘を繰り広げる「騎兵の秋山」の第一歩がここに始まります。
●閑院宮日露戦争で、秋山好古率いる第一旅団と騎兵隊の双璧をなしたのが、閑院宮載仁親王が指揮する第二旅団です。遼陽の戦い後、遅れて満州に到着した「宮さま旅団」ですが、
沙河の戦いでは、最前線でロシア軍と対峙。秋山の意見を取り入れて装備した機関銃で敵を潰走させました。司馬竜太郎は「うそのような簡単さで敵の大軍を大混乱におとし入れ」「この敵の東部戦線での動揺が、ロシア軍全体の同様に大きく波及して行ったことは、戦後にわかった」と功績を認めています。
●橘中佐遼陽会戦で歩兵大隊長として戦死し、死後中佐となった人らしい。・・・実のところ、あまり印象に残っていなかったりする人物。遼陽会戦だから、『坂の上の雲』4巻あたりで登場するのかなぁ。ちゃんと読み直さなくては。
朝から霧雨が続いたあいにくのお天気とあってか、公園内も、彫刻園も人気もまばらで、ひっそりしていました。そのおかげで、ゆっくりマイペースで彫刻館を見学し、お目当ての彫像を探し出すことができました。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の最終章「雨の坂」。日露戦争後、秋山真之が子規庵を訪ね、子規の墓参りをする情景が描かれています。小説の舞台となった根岸・田端を真之と同じように歩いてみました。
◆羽二重団子JR「日暮里」駅南口から、鶯谷方面に5分程歩くと、「王子街道 いも坂みち」の古標があり、その脇に、創業文政2年(1819年)の老舗団子屋・
羽二重団子があります。


正岡子規は、ここの団子が好物で、死去する1年前の日記に「芋坂団子を買来らしむ(これに付悶着あり) あん付三本焼一本を食ふ」という記述があるほど。俳句を何首も詠んでいて、店の脇には句碑が立っています。
芋坂も団子も月のゆかりかな

『坂の上の雲』の中で、秋山真之は子規庵を訪れる途中、この店に立ち寄ります。店内には、その場面を描いたイラストが店内に貼ってありました。

趣のある中庭を眺めながら、小説に出てくる団子をいただくことにしました。

羽二重団子は、平べったい4粒の団子で、種類は「あん」と「醤油」のみ。私は団子2本とお茶のセット、相棒はお抹茶とミニ団子のセットを注文。


キメが細かく甘さ控えめなさらし餡に包まれた「あん」、生醤油を塗って香ばしく炙った「醤油」の組み合わせが絶妙。2本でお腹もいい按配になります。病床に居ながらにしてこれを4本(しかも、そのうちの3本はあん)を食べたという子規。日記の「悶着アリ」の際の情景が目に浮かぶようで、思わずクスっとしてしまいます。

司馬遼太郎、夏目漱石や正岡子規、泉鏡花といった文豪たちの作品に登場する、羽二重団子を後にし、鶯横丁にある子規庵に向かいます。
◆根岸88番地曲がりくねった細い路地を子規庵に向かう途中、子規が根岸で最初に住んだ「根岸88番地」があります。子規は、ここに、母・八重、妹・律を東京に呼びます。

慣れない汽車の音に悩まされながらの暮らし、母と正月を迎えられたことの歓びを詠った俳句が、住居の壁に貼ってありました。


根岸88番地のすぐ先に子規の終生の住居となった
子規庵があります。
◆子規庵現在の子規庵は、戦争で焼けた家を弟子たちが再建したもの。建物だけでなく庭も忠実に再現し、6畳の「終焉の間」からは、窓越しに糸瓜棚を眺めることができ、子規が住んでいた頃の面影を残しています。私たちが訪れた時は、子規が俳句に詠んだ糸瓜が大きな実をつけていました。
<子規の絶筆3句>
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
をととひの糸瓜の水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
司馬遼太郎は、子規庵の場面を、真之が子規の家人の誰とも会わずに立ち去り、子規の母・八重と妹・律がその後ろ姿にそれとなく気付く・・・そんな情景に描いています。
格子戸の向こうから、八重と律が交わす松山弁の話し声が聞こえてきそう。

作品の雰囲気にどっぷり浸りたいところですが、周囲に視線を向けると、道路の左右にラブホテルが立ち並ぶロケーション。子規ゆかりの地に俳句や地図を貼るなど町の人の努力の跡は見られるのですが、文学散歩らしからぬ風情は如何ともし難く・・。
◆笹乃雪小説の中で、真之はこのあと、子規の墓のある田端の大龍寺へ向かいます。
我々は、その前に、子規ゆかりの店で少し早めの昼食にしました。訪れたのは、JR「鶯谷」駅前にある
笹乃雪。創業元禄4年(1691年)、300年以上の歴史のある老舗豆腐専門料理店です。玄関には下足番のおじさんがいて、靴と引き換えに番号札を渡してくれます。
この店にも子規の詠んだ句碑が立っています。
水無月や 根岸涼しき 篠の雪
朝顔に 朝商ひす 篠の雪子規は、笹乃雪名物の「あんかけ豆腐」が好物だったようです。2個で1人前。

こちらは、昼の「鶯御膳」。小付け、冷奴、あんかけ豆富、胡麻豆富、飛龍頭、うずみ豆富(豆富茶漬け)、豆腐羊羹がセットになっています。



あんかけ豆腐は、京風の滑らかな豆腐に、鰹出汁の効いた餡がかかり、辛子がアクセント。舌触りが良く、美味しい。その他の豆腐料理も、一つ一つ丁寧に作ってあって、300年以上続く老舗の貫禄を感じました。
平日の昼なのに、11時半過ぎから1組、2組とお客さんが入り、瞬く間に満席に。今も地元の人たちに愛されるお店であることが伝わってきました。
小説の中で、真之は、子規庵から3kmの道を歩き、子規の墓のある田端の大龍寺まで歩いて向かうことになっていますが、軟弱な我々は、ショートカット。「鶯谷」駅からJRで「田端」駅に移動します。
◆大龍寺田端駅からゆるやかな坂道を上った先の住宅街を数分歩くと、大龍寺があります。

本堂左手奥に墓地があり、その左奥に正岡子規の墓がありました。子規の墓の右側にあるのは、母・八重の墓。


「子規居士之墓」と刻まれた墓石のそばに、子規が生前に書いたという墓碑銘があり、次のように刻まれています。
「正岡子規又ノ名ハ虎之助 又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人
又ノ名ハ竹ノ里人
伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム
父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス
母大原氏ニ養ハル
日本新聞社員タリ
明治三十□年□月□日没ス
享年三十□月給四十圓」
最後に月給を入れるところが、子規らしい愛嬌の表れなのでしょうか。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、日露戦争後に、真之が子規の墓参りする情景を描く「雨の坂」で終わります。この情景をドラマではどういう風に演出されるのか・・・私だったら・・・そんなことを思い描きながら、3時間半弱の根津・田端散策を終えました。