5日目(10/29・月)
司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみち」を手にスペイン北部バスク自治州の州都ビトリア=ガステイス(Vitoria-Gasteiz)にやってきました。トラムの走る街っていいですね。
私どもは、大統領府のあるビトリアの町を目指した。バスク国の首都ビトリアである。街は、整然としている。私の文献上の知識ではこの街は、十四世紀からの歴史をもつというサンタ・マリア大寺院’(なんどサンタ・マリアという名称の多いことだろう)を中心に、道路が八本、放射状に出ていて、それが都市としての骨格を形づくっている。旧市街の丘の上に十二、三世紀の城址が存在するそうだ。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)ビトリア=ガステイス(Vitoria-Gasteiz)は、ナバラ王が12世紀にガステイス村(Gasteiz)の小高い丘に築いた要塞都市『NUEVA VICTORIA』が始まり。
スペイン語の地名のビトリア(Vitoria)に、バスク語の地名のガステイス(Gasteiz)をハイフン(-)でつなげたビトリア=ガステイス(Vitoria-Gasteiz)が、正式名称となっています。
現在の街の中心部は、旧市街の南にあるビルヘン・ブランカ広場(Plaza de la Virgen blanca)。ビトリア=ガステイスの守護聖人であるビルヘン・ブランカを称えて作られました。
中央には、スペイン独立戦争中の1813年6月21日に行われたビトリアの戦いの勝利を記念したモニュメントが飾られています。
普段は静かな街ですが、ビルヘン・ブランカ祭が開催される毎年8月は、広場全体が熱狂に包まれるそうです。広場の左側の路地から旧市街を散策。
バルが並ぶ石畳の街並が、緩いカーブを描きながら続いています。
路地の建物の隙間からサン・ミゲル教区教会の時計塔を見上げて
司馬さんがビトリアを訪れた1982年は、バスク語やバスクの自治を禁じたランコ独裁時代が終わり、バスク自治州の自治が回復したばかりで、バスク語を話すバスク人が少なくなっていた時期でした。
ともかくバスクには、バスク語以外、固有の文化は何一つない。言語のみがバスク人であることの唯一の定義であり、証明である。さらには、国家そのものでもある。そのために新国家では、国をあげてバスク語の学習を勧めている。なんと厄介なことだろう。もはや絶滅しかけているバスク語をゆりうごかし、息を吹きかえさせよう、というのだ。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)
サンタマリア大聖堂へと続く、路地を進むと途中に、16世紀半ばにイングランド王が主治医夫婦のために建てたというEskoriatza-Eskibel宮殿跡があります。
広場には、バスク市議会が2015年12月3日に、バスク語の地名がなかったこの宮殿前の広場の名前を Berriaren plaza(新バスク広場)に決めたということが、バスク語とスペイン語と英語で記してありました。これもバスク語復権運動のひとつなのでしょうか。
旧市街の真ん中の小高い丘の一番高いところにサンタマリア大聖堂があります。
サンタマリア大聖堂から、ゆるい曲線の路地を下ると・・・
ビルヘン・ブランカ広場の隣にあるスペイン広場に戻ってきました。ビトリアの市役所が面する新しく作られた広場で別名ヌエバ広場。正面に瀟洒な建物が市庁舎です。
スペイン広場から国鉄RENFEのビトリア駅を一直線に結ぶのが、エドゥアルド・ダト通り(Calle Eduardo Dato)。歩行者専用の広い通りの両側には、お洒落なバルやレストランが整然と並んでいて、旧市街とは趣が違います。
国鉄RENFEのビトリア駅からは、サンセバスチャン、マドリードなど各都市へ向かう列車が発着。
高架をくぐって駅の反対側には、Paseo Fray Francisco de Victoria という木立の散歩道があります。
20世紀初頭に建てられた豪華な邸宅や宮殿が立ち並ぶこの通りに、バスク自治州の大統領官邸があります。
AJURIA ENEA という名のバスク様式のこの建物は、1918年にビトリアの豪商Serafín Ajuria家の住居として建てられました。1980年にバスク自治政府が買い取って大統領官邸としたそうです。
本館は三階建ての石造りで、百年ぐらいは経っているかもしれない。前面には玄関がなく、向かって左横に車寄せがある。実業家の邸を官邸として買った。居抜きで買ったから、家具や調度品、装飾品がそのままになっているという。司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)
周囲には、思わず写真を撮りたくなるフォトジェニックな建物がたくさん。
こちらは「Villa Maria」。天窓がサンルームのようになっています。
三角コーナーに面したこちらの邸宅の名前は「Casa Zuloaga」各階ごとに窓の装飾が違ってお洒落。
アラビア風の装飾がきれいな「Villa Sofia」という建物は、現在、アラバ州議会博物館博物館の本部となっています。
こちらの建物は、Arabako arma museoa(武器庫博物館)となっています。
スペイン現代美術やバスク絵画のコレクションが充実しているという美術館(Museo de Bellas Artes de Álava)は、元アウグスティ宮殿。
文化施設が集まる緑豊かなこの一角に小学校もあり、授業を終えた子供たちが迎えに来た親と一緒に下校する姿も見られました。
通りを抜けたところにあるフロリダ公園に隣接して、バスク国会議事堂があります。中学校の校舎だった施設を買い取ったとは思えない大理石の立派な建物。
敷地内には、バスク、スペイン、ユーロの旗が掲げられています。
フランス革命は、王朝を倒したことよりも、革命によって広域国家ができたことのほうが意味が大きい。・・・国民国家という、在来の住民や地方の多様性を平均化した国家ができたことのほうも、見逃せない。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)司馬さんは、ビトリアの町で、自分たちの言葉の回復によって少数者たちが歴史を生きていく未来を感じとり、旅を終えています。
バスクのみならず、世界史のつぎの段階は、国際規模において、あるいは国家内でのレベルにおいて、少数者たちが広域社会の権力への突きあげをおこない、強い原色性をもった自立の主張をかかげる時代に入るのではないか。バスクの自治は、その予兆であるかのような気がする。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)ビトリア=ガステイスは、緑豊かで、文化施設の多い、静かで綺麗で落ち着いた文化都市でした。バルのレベルも高く、人気のバルもサンセバスチャンほど混雑していなくて、ゆったり楽しむことができました。続いては、バルめぐりのお話を。
5日目(10/29・月)
ビトリア・バステイスで楽しみにしていたことの1つがバルめぐり! この日のランチは、もちろんバルに直行です。
●La Ferreferia1軒目は、町の中心部にあるビルヘン・ブランカ広場前の『La Ferreferia』です。初めてビトリア・バステイスを訪れる人にも迷わず行けるのではないかしら。とてもわかりやすい場所にあるけれど、ちゃんと美味しく、ビトリア・バステイスのバルのものさしになるようなお店だと聞いて、やってきました。
出入口は、広場に面して2つあります。こちらの入り口から入りました。
店内は、モダンで明るく、カウンターには美味しそうなピンチョがたくさん並んでいて、思わずテンションがあがります。
オムレツだけでも何種類かあり、サンドイッチやバーガースタイルのピンチョもありました。オーダーすると温めて出してくれます。
カウンターで立ち飲みすることもできますが、テーブル席に座って食べることにしました。飲み物は、最初ですから、もちろんチャコリ。良く冷えていてキリっとしていて、昼から飲むワインは格別です。
手始めに、バスクのバルメニュー定番のGilda(ヒルダ)から。ヒルダは『アンチョビー+オリーブの実+青唐辛子のギンディーヤ(バスク語でピパラ)の酢漬け』を楊枝で串刺しにした超シンプルなピンチョ。塩気と酸味と辛みのバランスが絶妙でチャコリに良くあいますし、箸休めにもいい感じ。バスクの人に根強い人気があり、どのバルにも置いてあるのがわかるような気がします。シンプルなだけに店による素材や味の違いもストレートにわかりそうで、バルめぐりの達人の中には、まずはヒルダという方が多いようです。
ジャガイモとハムのトルティージャは、このようにフォークを突き刺し、パンを添えて出すのが、バスク風。
温め直しなのにトロトロで何層にもなったお芋のホクホク感じとハムの塩気と相まって、美味しい。お腹にもどっしり。
ウナギの稚魚のピンチョ。ウナギの稚魚は、食料品店で瓶詰めなども売っているポピュラーな食材なのですが、日本ではなかなかお目にかかれないので、思わず飛びついてしまいました。ウナギの稚魚の塩気とピーマンの甘さが絶妙。頼んで正解。
ビトリア・バステイスでのバルめぐりはここを基準としてスタート。バルに入る前は快晴だったのに、外は泣きたくなるような土砂降り。ビトリアの午後は、快晴、土砂降り、曇り、小雨、快晴、小雨、快晴とほんの4時間程の間に目まぐるしく天候がかわり、折りたたみ傘を開いたり閉じたりの連続でした。
★La Ferreteria
Virgen Blanca Plaza, 10,
01001 Vitoria-Gasteiz, Araba
5日目(10/29・月)
前日に続いて、この日も大移動。ピレネー山脈麓のハビエル(Javier)からバスクの州都ビトリア・ガステイス(Vitoria- Gasteiz)まで約150kmのドライブです。朝9時半に出発した私たちが、まず最初に向かったのは、ハビエル(Javier)から北西へ7km程のサングエサ(Sanguesa)です。司馬遼太郎の「南蛮のみち」で触れているサンタ・マリア教会を見るためでした。
●Iglesia Santa Maria la Real(サンタ・マリア・ラ・レアル教会)
サンタ・マリア・ラ・レアル教会は、サングエサの町外れのアラゴン川沿いにあります。スペイン・ロマネスクを代表する建築・彫刻の一つで、ゴシック様式の尖頭をもつ鐘楼は、後から作られたそうです。
聖堂は、尋常ならず古めかしかった。・・・質素な構造と城壁まがいの高い塀をめぐらし、塀のむこうに、三廊ならびの身廊がのぞいている。これで十一、二世紀にはやったロマネスクの建物であると考えていいと思うが、ともかくもバスが過ぎてしまった。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)教会の正面(ファザード)は、西側にあるのが通常ですが、西側をアラゴン川に遮られた地形のため、正面入口が南側に設けられています。
ファザードの扉口と壁面は、びっしりと彫刻で埋めつくされています。
ファサード上部の2段の帯状になっている部分には、玉座のキリストを二人の天使と12使徒が囲む像が彫り込んであります。
半円形のタンパンと呼ばれる部分には、最後の審判図が描かれ、その下に聖母マリアを囲む12使徒が刻まれています。
扉の両側の円柱には、細長い人物の彫像が彫られています。扉の左側には、3人のマリア(マグダラのマリア、聖母マリア、ヤコブの母)が
右側の円柱には、聖ペテロ、聖パウロ、首吊のユダが彫りこまれています。
教会を東側からパチリ。サンティアゴに向かう巡礼者たちは、このファザードを見上げたあと、アラゴン川の橋を渡って西に向かったのでしょうか。
我々も西側に移動します。向かうは、バスク自治州の州都ビトリア・ガステイス(Vitoria- Gasteiz)です。
朝のテレビで見たこの日の天気予報は、スペイン北部の海岸沿いが大雪で、内陸部も、雪雲がちぎれちぎれに覆っていたことが気にかかります。
パンプローナまでは小雨がぱらつく程度だったのですが、途中、暴風雨になったり、パーッと晴れ上がったかと思ったら
雪に覆われた山々を見ながらのドライブ・・・と、目まぐるしく天候が変わるので、ドキドキのドライブとなりました。
出発から2時間半程でビトリアに到着。郊外は、集合住宅らしき建物が整然と立ち並んでいて、落ち着いた街といった印象。
街の中心部に近づく頃には空は、ご覧の通りの快晴!!
ホテルに車と荷物を預けたら、お昼ご飯にいたしましょう。
4日目(10/28・日)
ピレネー越えの長距離移動の時間が読めなかったことや、ハビエル城をゆっくり見学したかったこともあり、この日は、ハビエル泊まりにしました。
●Hotel Restaurante Xavier
-ロケーション-
宿泊したのは、ハビエル城の目の前にある、
Hostel Xavier(ホテルハビエル)です。ハビエル城観光には格好のロケーション。ホテルの玄関前が宿泊者専用駐車スペースになっているので、こちらに車を停め、荷物をホテルに放り込んでから、身軽になって見学することができます。レストランを併設していて、お天気がよければ前庭のテラスで、ハビエル城を眺めながら飲み物や食事を楽しむのも良さそう。
-レセプション-
常時スタッフがいる訳ではないので、事前にチェックインとチェックアウトの時刻を伝えておくことが必要です。家族経営の小さなホテルでマダムは英語も話せますが、基本的には、スペイン語しか通じないと思った方が良いかも。部屋にセーフティーボックスがないため、貴重品をフロントに預けたのですが、対応したスタッフが貴重品袋を預かったことや保管した場所を他のスタッフに伝えずに帰宅していたため、ひと騒ぎ。居合わせたホテルのスタッフのみなさんが親身になって対応してくれたので、無事、帰宅したスタッフと連絡が取れ、パスポートとエアのチケットなどの入った貴重品袋は手元に戻って着ました。
-客室&設備- 年季の入った少々古めかしい建物で、客室内もホテルというよりは、シャンブルドットやB&Bのような感じで、田舎の親戚の家に来たような感じかしら。広さは十分にあります。
ベッド、薄型テレビ、無料WIFIを備えています。冷蔵庫、電気ポットがなく、お茶を飲むなら下のレストランスペースで飲むしかありません。セキュリティーボックスがないのは前述の通り。
-バスルーム- バスタブ付きなので冷えた身体を湯船で温めることができるのがありがたい。寒い場所なのでヒーター付き。ビデもあるのがヨーロッパらしいですね。スリッパやアメニティーはありませんが、タオルやドライヤーなど最低限のものは揃っているから良しとしましょう。
食事は、ホテル1階のレストランでいただきます。
-夕食-
レストランのディナータイムは、20時30分スタートとスペイン時間。日本人的には、ただでさえ遅く感じるのに、この日は冬時間への切替日で前日より時計が1時間遅いので、感覚的には、21時30分スタート。車酔いして昼を抜いたこともあり、お腹ペコペコ状態でレストランへ。とにもかくにも、まずはオーダーを。メニューは、スペイン語と英語の併記になっているのが、ありがたい。アラカルトもあったのですが、前菜、メイン、デザートがセットになったプリフィックスのムニュがあったので、こちらから魚のスープ、バカラオ、フランをチョイスすることに。
グラスワインをもらってまずは乾杯。カーナビの案内だけで、ピレネー山脈を越え、スペイン側まで、運転してくれた相棒君に、改めて感謝!
ワインと一緒に供されるバカラオ(干鱈)のクロケッタが、熱々で美味しい。程良い塩気でワインが進みます。
ほどなく供されるのがスペインらしい素っ気ない、田舎パン。食感が軽やかで、トーストしてオイルをかけてハムと一緒に食べると美味しいの。あぁ、スペインに来たなと実感。空腹なのでバクバク食べます。
●Sopa de Pescado前菜は、バイヨンヌですっかり気に入った魚介のスープにしました。テーブルでマダムがサーブしてくれます。こちらのは、滑らかな舌触りの魚介のエキスが詰まったスープに、アサリ、イカ、塩鱈の具がゴロゴロと入った具沢山スープ。疲れ切った身体を空腹の胃を優しく癒してくれます。しみじみと美味しい。
●Bacalao戻した干し鱈をパプリカとトマトで煮込んだお料理。魚の身がふっくらしていて、こちらもやさしいお味。
●Flanカスタードソースの上に、素朴なプリンにアイスクリームが添えてあります。甘さ控えめなやさしいお味。
スペイン料理は塩気がしっかりしていて味が濃いイメージがあったのですが、全体的にどれも穏やかな味わいで、長旅で疲れた胃と身体には、良い塩梅でした。マダムにちゃんと伝えられるように、スペイン語をちゃんと覚えていかなかったことを後悔。エスプレッソで〆てて、ご馳走さまでした。
-朝食-
スペインは朝もゆっくりです。朝食は、8時30分スタート。朝食は、ビュッフェ方式で、パン、ケーキ、チーズ、ハム、たまご、ジュース、ヨーグルト、果物などがカウンターに用意されています。パンはトーストしていただきます。やっぱりスペインのパンは、トーストが一番。
飲み物は、なんとなく紅茶の気分だったので、紅茶を頼んだら鉄瓶で出てきました。
南部鉄の鉄瓶みたいで、なかなかお洒落。
窓越しにハビエル城を眺めながらの朝食。スペイン北部では、大雪で交通に影響がでているところもあるようですが、今のところ、ここハビエルのお天気は、冷え込むものの、小雨程度におさまっています。朝食を済ませたら早めに出発することにいたしましょう。
シティーホテルに泊まるようなスマートさや快適さはありませんが、家族経営の小さなホテルならではのアットホームな雰囲気があり、スペイン語が話せたらもっと色々なお話ができて楽しかったんだろうなぁと思います。田舎のホテルにもかかわらず、レストランは食事の内容もサービスも申し分なく、体調が整っていなかったことが悔やまれます。
●
Hostel Xavier Calle Zona Turística, 31411 Javier, Navarra,Spain
***ザヴィエル・ハビエル問題****
日本人的には、
フランシスコ・ザヴィエルという読み方に馴染みがありますが
スペインでは、ザヴィエルではなく、ハビエルと読み
綴りも Xavier と Javier の両方があります。
ちなみにホテルの名前は Xavier ですが、
住所の表記は Javier で
Google map の検索や、カーナビの設定にも一苦労。
このブログでの表記についてあれこれ悩んだのですが、
人物については馴染みのあるザヴィエル表記にして
城や知名についてはハビエルと表記しました。
4日目(10/28・日)
フランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポーから、車で3時間弱。国境を超え、ピレネー山脈の西側のスペインはナバラ州のハビエル町へ。左側にピレネー山脈を見ながら、赤茶けた埃っぽい荒野を走り抜け、小高い山をのぼり、林の木々を抜けると、どっしりと大きな石の城が目の前に現れました。サンフランシスコ・ザヴィエルの生まれた古城ハビエル城です。
●Castillo de Javier(ハビエル城)
フランシスコ・ザヴィエルは、ナバラ王国の宰相の息子として、1506年にこの古城で生まれました。
16世紀の私どもの祖先に、地球がまるいことを最初に教えたひとが、いま私どもが居るピレネー山脈の赤茶けたスペイン側のふもとの、岩石の露出したような風景のなかでうまれたかとを思うと、ふしぎな思いがしないでもない。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)城の始まりは、10世紀末。アラゴン川を監視するために岩の上に建てた1本の監視塔。城はザヴィエル家の旗が翻るこのサンミゲル塔を中心に拡張されていきました。
主塔の上に、いまから戦闘をはじめるかのように、赤地の旗がひるがえっている。ザヴィエル家の旗である。フランシスコ・ザヴィエルは死後も可憐な戦闘者であるようだ。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮の道」より)サンミゲル塔を見上げて。岩を削った跡が残っています。
城は、12世紀初めになると、半円形の城壁でサンミゲル塔を囲み、
13世紀には、防塁とウンドゥエス塔が加わり
14世紀に新館が建てられ、戦闘の砦としての機能を強めていきます。
ザヴィエル城は、市民が日常生活を営む都市城郭ではない。純粋に戦闘用につくられた孤立せる要塞である。
兜の目庇の下から両眼を光らせた戦士が、槍をかまえて岩上に蹲踞しているような凄気がある。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮の道」より)スペインとフランスの戦争でフランスに味方したナバラ王国は、スペイン軍によって滅亡し合併され、戦闘用の砦だったハビエル城は居住部分だけを残して、取り壊されました。ザヴィエル9歳の時でした。今のこのお城は、近年修復されたもの。
城郭左手にある、堂々とした石造りの聖堂(バジリカ)は、修復完了後の1901年にザヴィエルの生誕を記念して建てられました。
まずは、聖堂内から見学。
聖母子像の下の床に
1509年4月7日にフランシスコ・ザヴィエルがここに生まれたことを示すプレートがあります。
祭壇の真ん中に立ってらっしゃるのは、ザヴィエルさま。1622年にナバラの守護聖人となりました。
続いては、お城の内部へまいりましょう。二重の堀を越えて、跳ね橋を渡って
門をくぐって城壁内へ。
ザヴィエルが幼少期まで過ごした城の中は、現在、博物館になっています。入館料は、大人1人3€(2018年10月現在)。日本語のパンフレットもあります。
城の構造や変遷、ザヴィエルの暮らした部屋や祈りをささげた礼拝堂を当時の様子を見学できるほか、絵画、模型、ジオラマなどの様々な資料で、フランシスコ・ザヴィエルの生涯や伝道の様子がわかるように紹介してあり、見ごたえがあります。
ここは、ザヴィエル家の居間。天井の木の梁を除いて固い石でできています。この石牢のような殺風景な部屋を見た司馬遼太郎は、どんな苦難にも耐えるという生活の基礎がここにあるのではないかと、印象を述べています。
ジオラマの間では、ハヴィエル城で生まれ、パリの聖バルブ学院で哲学を学んでいる時にイグナチオ・ロヨラと出会って感化され、イエズス会を創設し
キリスト教を広めるために船でインドへ向かい、マラッカで日本人のヤジロウに出会い、鹿児島、平戸、山口、京都をめぐって日本でキリスト教を伝道し、1552年に中国で亡くなるまでの様子が再現してあります。
日本での布教の様子を伝える掛け軸の展示コーナーでは、興味深い掛け軸をいくつも見ることができました。この掛け軸には、漢字で「祈通日本信徒其聖人願成就事」と書かれています。
この掛け軸には「大内義隆」の名前が。
ザヴィエルが戦国大名の大内義隆に謁見しているところを描いたもののよう。
浜辺での布教の様子でしょうか。
侍たちが宣教師たちを丁重に迎えている様子が描かれています。
しげしげと眺めているから日本人とわかったのでしょうね。居合わせた色々な国の方から、なんと書いてあるのか、謁見しているのは誰なのか等々と質問されてしまいました。受け答えの担当は相棒君。
紋章の間には、門の入口などに掲げられている城の紋章の由来が解説してありました。紋章のことについては、司馬遼太郎の「南蛮のみち」にも詳しく書いてあります。
城主が交代した場合、前の城主家の紋章の一部を残すらしい。あたらしい紋章は、赤地の楯形である。上段には白と黒の市松模様でデザイン化された二つの逆半月をかさね、下段にはおなじく白黒の市松模様による三本のふとい横線を入れている。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より) この城は、ナバラ国王から与えられたサダ一族(マルティン・アズナルス・デ・サダ)の所有から、アスピルクエタ家の所有となり、フランシスコ・ザヴィエルの母(マリア・デ・アスピルクエタ)の持参金の一部となってザヴィエル家の城となったのですが、紋章の図柄からもわかります。
塔の下の礼拝堂の奥には、13世紀作のクルミ材による彫刻の「微笑みのキリスト」像があり、厳かな雰囲気。
周囲のフレスコ画は15世紀のもので、骸骨が描かれています。
サンミゲルの塔の最上階にあるサンミゲル礼拝堂。こちらは窓の光が差し、明るい印象。
サンミゲル塔を半分ぐらいまで登ったテラスからの眺めです。
分厚い壁面に長細く空いているのは、鉄砲とか石弓を射るための隙間でしょうか。
下を見るとまさに要塞といった感じ
高台にあるので見晴らしは良いです。遠くに見えるは、ピレネー山脈。
城郭のそばの木立の中にある古い教会があります。
当時のままではないかと思われる古びた石畳を進むと、質素な礼拝堂があります。
余分な装飾はなく古い農家のように質素で人の心を素直にさせてくれる建物だった。(司馬遼太郎著「街道をゆく 南蛮のみち」より)ザヴィエルが洗礼を受けた礼拝堂の奥には
ザヴィエルの洗礼式に使われた洗礼盤が、いまもそのまま残っています
整備が行き届き公園のようになっています。
周囲を含めて、約3時間半かけてじっくり見学することができました。
ホテルで一休みいたしましょう。