◆ Mangiare Felice ◆ 食べて飲んで幸せ:旅:津軽 2010
2011-04-06T00:10:42+09:00
lagattina
本を読んでは旅をして、酒を飲み、城を歩く・・・。「旅」と「酒」と「うまいもん」をこよなく愛する名古屋在住catの食べて飲んで幸せな日常。
Excite Blog
太宰治の『津軽』を歩く・・・の後日談
http://lagattina.exblog.jp/15819405/
2011-01-25T20:07:00+09:00
2011-04-06T00:09:53+09:00
2011-01-25T20:08:17+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
JR東日本から、小包が届きました。
中を開くと、太宰スタンプラリー斜陽館コースの当選案内と景品が。当選したのは、またもや、相棒君。こういうことで運を小出しに使う男(^^;;
景品は、津軽名産のリンゴを使ったお菓子「林檎キャラメルパイ 斜陽館のレンガ」。
リンゴの旨みが濃厚な、美味しいパイでございました。こういうことってあるんですねぇ。
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『津軽』を歩く(23)おわりに
http://lagattina.exblog.jp/15498217/
2010-11-23T22:26:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-22T22:39:15+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
2月に津軽を旅した時に軽い気持ちで読み始めた『津軽』が、面白くて、可笑しくて。もう何回読み直したかしら。金木や弘前を訪ねたら、今度は西海岸にも、蟹田にも、外ヶ浜にも、行ってみたくなり、今回の旅行となりました。行く先々で太宰の津軽行脚を思い出しては笑い、溜息をつき、頷き。改めて『津軽』は、津軽を描いた旅行記なんだと、実感。津軽の酒を飲み、津軽人の心の故郷である津軽富士=岩木山を拝んで、5日間の旅を終えました。
~ 日程 ~
2010年10月7日(木)~10月11日(月)
1) はじめに
2) 蕎麦屋で一献@眠庵[神田/東京]
3) 上野発の夜行列車「寝台特急あけぼの」で青森へ
4) 不老ふ死温泉で立ち寄り湯
5) 深浦を歩く
6) リゾートしらかみで津軽西海岸を満喫
7) 田酒で一杯@ふく郎[青森/青森]
8) 青森の玄関口・青森駅
9) 「風の町」蟹田を歩く
10) 「本州の袋小路」竜飛岬へ
11) 「故郷の奇妙な伝説が残る」三厩~今別を歩く
12) 居酒屋@小松酒道場[青森/青森]
13) 4年間を過ごした旧制青森中学校跡地
14) 縄文遺跡めぐり
15) 「コモヒの町」木造
16) 青荷温泉で立ち寄り湯
17) 湯川温泉 湯川山荘で一泊
18) 芦野公園は、太宰ワールド
19) 十三湖でしじみラーメン@和歌山[五所川原/青森]
20) 「たけはそれきり何も言はず・・」小泊を歩く
21) 津軽人の心のふるさと・岩木山
22) フルムーン夫婦グリーンパスをフル活用して青森から名古屋へ
23) おわりに
今回は、特別な場所へ行った訳でもなく、何か特別な体験をした訳ではなく、特別なものを食べた訳でもなく・・・それでも、旅人の心を捉える津軽。そう遠くない将来、3度目の旅に、出かけることになりそうです。
太宰のスタンプラリー、まだ続いてました。今回も参加。これから応募します。
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『津軽』を歩く(22)岐路へ
http://lagattina.exblog.jp/15467311/
2010-11-22T23:09:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-16T23:17:35+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
レンタカーを返却し、名古屋へ帰る準備をします。青森駅前のアウガで地酒やハタハタ鮨などを買い込み、駅のホームへ。
JR「青森」駅⇒(特急つがる)⇒⇒JR「八戸」駅
ここからはひたすら特急列車を乗りついて名古屋へと帰ります。まずは、青森16:50発の「特急つがる」に乗って、八戸へ。フルムーン夫婦グリーンパスをフルに活用すべく、グリーン車に乗車。
連休の最終日とあって、グリーン車も満席で、殆どの皆さんが、八戸で新幹線に乗り換えて東京方面にへ帰る旅行客のようでした。
JR「八戸」駅⇒⇒(新幹線 はやて)⇒⇒JR「東京」駅
八戸で新幹線に乗り換えて東京へ。特急つがるから乗継ぎ時間10分の新幹線へ乗るべく、新幹線のホームへと駆け抜ける大群をよそに、我々は、のんびりお乗換え。グリーン車の予約が取れず、30分後の列車に乗ることになっていたからです。八戸-東京間は3時間もありますし、夕食は車中食を予定していたので、1本遅らせてもグリーン車にしたのですが、結果的に正解でした。この日の夕食。まずは焼き鳥とビールから。続いて、ハタハタ鮨、鯖鮨、すじこ、はんぺんなどをアテに日本酒を少々。いずれも青森の地酒のカップ酒や小瓶で、銘柄は、豊盃、喜久泉、ねぶた。
結構飲みました。東北新幹線のグリーン車では、紙おしぼりやソフトドリンクのサービスがあるのですね。食後に、私は、りんごジュース、相棒はコーヒーをいただきました。
JR「東京」駅⇒⇒(新幹線 ひかり)⇒⇒JR「名古屋」駅
東京からは、最終の新幹線で名古屋へ。グリーン車は満席でしたが、他の指定席は、かなり余裕がありました。そういうことってあるんですね。
青森駅を出たのは16:50で、名古屋に着いたのが23:49。7時間の列車旅となりましたが、さすが、グリーン席は椅子の座り心地が違います。快適、快適。18きっぷ旅の時のような身体の疲れは残りませんでした。
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『津軽』を歩く(21)岩木山
http://lagattina.exblog.jp/15467256/
2010-11-21T23:04:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-16T23:09:40+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
津軽の人間ほど、自分の故郷から見た岩木山の美しさを自慢する人はいないといいます。
太宰も『津軽』で、津軽平野の金木、五所川原、木造から眺めた岩木山の端正で華奢な姿がいいと語っています。
「や!富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。今回の旅行は晴天に恵まれたものの、綺麗な岩木山が見ることが出来ずにいました。最終日のこの日、太宰が好んだ津軽平野からの岩木山を見ようと、風を待ちながら木造の水田を走っていたら、風で雲が流れ、山頂を隠す雲が薄れ、その美しい姿をなんとか拝むことができました。ギリギリまで粘った甲斐がありました(^^)すかさず、岩木山のビューポイントと言われている五所川原の乾橋に移動します。乾橋は『津軽』にも登場。太宰が小泊に行く前に中畑さんの娘のけいちゃんに、案内してもらう場面があります。太宰がタケとの思い出を語った乾橋からは、今も岩木川と岩木山を見ることができます。
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『津軽』を歩く(20)小泊
http://lagattina.exblog.jp/15456317/
2010-11-20T22:39:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-14T22:45:24+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
太宰治の小説『津軽』のクライマックスは、小泊で太宰が子守のタケと30年ぶりに再会する場面。太宰は立ち通しのバスに2時間揺られ、昼すこし前に、小泊港に到着します。◆小泊港
人口二千五百位のささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、・・・いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である
と太宰が書いた小泊の漁港。イカ釣り船が並び、のどかな雰囲気。◆越野金物店
太宰は、育ての母と慕っていた子守のタケの嫁ぎ先である「越野金物店」を訪ねますが、あいにくの留守。店先にカーテンがおろされ、入口のガラス戸には小さい南京錠がぴちりとかかっていました。◆横野たばこ店
途方に暮れた太宰は、筋向いの煙草屋の痩せこけたおばあさんに、越野家の人々が小学校の運動会に行っていることを教えてもらいます。現在もたばこ店を営んでいる横野さん。・・・入口が凄いことになっています(大汗)
◆ふれあい運動場
旧小泊国民学校運動場に着いた太宰は、万国旗を掲げた運動場の周囲に100軒程の掛小屋が並び、それぞれの家族が重箱を広げて笑う姿を見て呆然とします。
日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出づる国だと思った。国運を賭しての大戦争の最中でも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。・・・海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなったような気がした。◆小説「津軽」の像
太宰がタケと再会を果たした運動場を臨む高台に、小説「津軽」の像があります。あの日の2人さながらに太宰とタケが並んで座っています。たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き
・・・私には何の不満もない。まるで、もう安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことが無かった。・・・私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。◆太宰治文学碑
銅像の周囲は公園に整備され、再会の場面の一節を太宰の長女・津島園子の筆で刻んだ文学碑も建っています。寄付した人々の名を刻んだ石碑に、太宰の生家だった斜陽館、太宰治疎開の家『津島家新座敷』を管理する京染の白川さん、『津軽』のSさんこと下山清次さんの名前を発見。ゆかりの方々のご支援でこんなに立派に整備されたのですね。
◆小説「津軽」の像記念館
記念館まで出来ていました。タケの写真や太宰と再会した時に締めていたアヤメの模様の紺色の帯など、『津軽』の登場人物ゆかりの品々を展示しています。映像コーナーでは、太宰との再会について語るタケのビデオを見ることができます。『津軽』ファンには、ひとつひとつが、興味深い。帰り際に、記念館のお嬢さんが「お時間があれば」とお手製の地図をくれました。タケが運動場から太宰を誘い出した「竜神様」への行き方が書いてあります。歩いて5分の場所だと聞き、訪ねてみることにしました。
◆竜神様
太宰の前を黙って歩いていたタケが、太宰の方に勢い良く向き直り、「久し振りだなあ」とにわかに、堰を切ったように能弁になったのは、このあたりでしょうか。
私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思つた。
現在の社は、建替えられていて、当時の面影はありません。でも、実際に運動場から竜神様まで歩いてみて、太宰の出現に戸惑い、平静を保つのが精一杯だったタケが、普段の自分を取り戻していく・・・その心理的、物理的な距離感を推し量ることが出来たような気がします。うん。来て良かった。
旅の最後は、太宰が自分の心のふるさとを見つけた小泊で締め括る予定だったのですが、あと1つだけ、どうしても見たいものがあります。それを目指して、車を南へと走らせます。
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『津軽』を歩く(19)十三湖
http://lagattina.exblog.jp/15456276/
2010-11-19T22:35:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-14T22:39:15+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
『津軽』での太宰は、津軽鉄道の朝一番の列車で金木から終点の中里へ向かい、中里で小泊行きのバスに乗り換えます。1日1本の貴重なバスは満員で、太宰は立ったまま、バスに揺られることになります。中里から程なくして窓の外に十三湖があらわれます。
◆十三湖
車窓から十三湖を遠望した印象を、太宰は『津軽』にこう描いています。
やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったたような、気品はあるがはかない感じの湖である。江戸時代後期の旅行家・菅江真澄は、十三湖を湖の色は「藍をうちながした」ようで、十三湖の集落は「貝などをふせたよう」だったと記述しています。司馬遼太郎は『街道をゆく 北のまほろば』の中で、太宰も菅江も、十三湖の風景を貝で形容していることに着目。十三湖を訪ね「心もとなく、はかなく、寄る辺ない美しさ」を目にした司馬は、この砂州の下に、室町に栄え、安東氏の滅亡とともに消えた中世の都市が眠っていることに思いを馳せます。◆吉田松陰遊賞之碑
幕末の志士・吉田松陰の来訪を記念する石碑がここにも。松陰は、各地の志士と国事を談し、津軽半島に出没する外国船に対する防備の様子を見るため、東北を歴遊。竜飛岬に向う途中に十三湖を通り、小高い山からの十三湖の眺めを記録に留めています。「山は潟に臨みて岩城山に対す。真に好風景なり。」
十三湖と言えばシジミです。十三湖は、白神山地の水が注ぐ岩木川の淡水と日本海の海水が交わる汽水湖で、良質の「大和シジミ」の生育に適しているのだそうです。という訳で、この日の昼はシジミです。
◆ドライブイン 湖畔の宿 和歌山
訪れたのが、十三湖畔の十三大橋のたもとにある「ドライブイン・湖畔の宿 和歌山」です。しじみラーメン元祖の店で、十三湖産の良質の砂場で生育した3年物以上のシジミを使っているそうです。
店内に入ると、みなさん、シジミラーメンをすすってらっしゃいます。お品書きを見ると「シジミラーメン(750円)」と「特製シジミラーメン(1000円)」とあり、躊躇うことなく後者を。特製の方は、4年以上成育した大ぶりのシジミだけをふんだんに使っているそうです。愉しみだ(^^)
●元祖特製シジミラーメン
程なくして出てきたのがこちら。丼の半分ぐらいが蜆です。少し青みがかった白濁スープに、麺、たっぷりのシジミが入り、ゆで卵、ワカメ、メンマ、刻み葱がトッピングしてあります。まずはシジミから。こんなに丸々としたシジミですもの。身もキッチリ残さずいただきます。身は厚みがあって、プリプリしていて、旨味も濃厚。唸ります。それが、食べても食べてもなくならない程に気前良くたっぷり入っているのが嬉しい。スープはシジミの出汁の旨みが前面に出た、穏やかながら深みのある味わい。ナンボでも飲めます。麺は中細の縮れ麺で、柔らかいけど、コシもあり、スープとのからみ具合もよろしく、スルスルいけます。
シジミの身をほじって食べ、スープを飲み、麺を啜って、またスープを飲み、再びシジミの身を1つ2つ・・・。プリっとしたシジミ、旨みたっぷりのスープ、これにからむ麺が調和して、滋味満載。シジミは肝臓にいいからと言い訳しながら、シジミのエキスが溶け出たスープをしっかり飲み干し、ご馳走様でした。シジミ好きな2人、大満足。あぁ、また食べに行きたい。
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●ドライブイン 湖畔の宿 和歌山 (ラーメン)
住 所:五所川原市十三羽黒崎133-22
備 考:支払いは現金のみ*""*""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*""*""*"""*"""*"""*
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『津軽』を歩く(18)芦野公園
http://lagattina.exblog.jp/15417830/
2010-11-18T18:18:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-07T18:19:48+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
旅の最終日。太宰の『津軽』のハイライトでもある小泊へ向かいます。
太宰は小泊のタケに会うため、朝一番の津軽鉄道の列車に乗ります。この日もご多聞に洩れず二日酔い。車窓からの風景を眺めながら「世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考え」る太宰なのでした。
◆芦野公園駅
太宰が「踏切番の小屋くらいの小さい駅」と書いた芦野公園駅の旧駅舎。
駅に着いた時、金木の町長が上野で芦野公園までの切符を求めたところ、そんな駅は無いと言われ、切符を手に入れるまで30分かかったという昔話を思い出します。
◆芦野公園
芦野公園では、小説『津軽』 太宰の足跡 写真展』が開催中。文学碑へと続く木々の合間に『津軽』の印象的なエピソードを再現した写真をストーリーに添って展示しています。
金木の実家を訪ねた際、理解しあえないでいる兄・文治らと出かけた「鹿の子川溜池」の写真もありました。太宰は、出来たばかりの溜池を誇らしげに思い、ほとりに建つ石碑に兄の名前を確認しています。
兄とこうして、一緒に外に歩くのも何年振りであろうか。・・・もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。
「今別の鯛」にちなみ、鯛の魚拓と、皿に愚かしく盛った5切れの「やきざかな」の写真も。
今回の旅に備えて『津軽』を読み込んでいたこと、数日前に訪れたばかりの場所の写真が多かったこともあり、旅の途中でありながら、旅を反芻。
◆太宰治文学碑
そして公園の奥には、金色の不死鳥が輝く、太宰治文学碑が建っています。撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり
碑文は、太宰が好きだったフランスの詩人ポール・ヴェルレェヌの詩の一節で、処女作品集『晩年』の巻頭作品「葉」のエピグラフに用いています。『津軽』では、今別のMさんの書斎でヴェルレーヌの全集を見つけた時の嬉しさを描いていましたっけ(^^)
◆太宰治像
太宰の書で太宰治と刻んだ大きな岩の上に、彫刻家・中村晋也による太宰治の銅像が建っています。太宰治生誕百年を記念して、2009年に建てられたそうです。まだぴかぴか。芦ノ湖を背に建つ太宰の像が、なんとなく恥ずかしそうに、困った様子で立っているように見えるのは、私だけかしら。青々とした芦ノ湖。『津軽』での太宰は、車窓から芦ノ湖を見た際に、兄がこの池に遊覧ボートを1艘寄贈したことを思い出します。金木でのエピソードには、兄文治の存在が見え隠れし、太宰にとっての兄という存在の大きさを感じます。
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『津軽』を歩く(17)湯川温泉湯川山荘
http://lagattina.exblog.jp/15396648/
2010-11-17T18:32:00+09:00
2011-04-06T00:10:25+09:00
2010-11-03T18:41:50+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
青荷温泉で立ち寄り湯を楽しんだ私たちは、国道102号をさらに十和田湖方面に走り、この日の宿となる湯川温泉「湯川山荘」に向かいました。
◆湯川温泉 湯川山荘
国道沿いの駐車場に車を停めてから、吊り橋で対岸に渡ります。深緑の中を流れる浅瀬川の渓流が清清しい。ブナの木立を進むと、「秘湯の山荘」といった趣の建物が現れます。吉川英二が「宮本武蔵」を執筆し、「寄る辺ない孤独に満ちた宿」と語った湯川山荘です。「こんにちは」と中に入ると、すぐに宿の人が、3階のお部屋に案内してくれました。フロントで貴重品を預け、早速、一風呂いただくことにしました。宿には、男女別の内湯、混浴の露天風呂と2つの温泉があります。まずは、お目当ての露天風呂へ。玄関横から外に出て、急な階段を川に向って降りた先に露天風呂はあります。湯船は2つ。大きい方の「藤助の湯っこ」は、湯船も大人10人くらいがゆったり入れる広さ。お湯は無色透明の掛け流しで、肌触りが良く、湯温もいい按配。雨除けや傘がないので、雨降りの時は逃げ場がない。お地蔵さんが被るような笠でも置いてあればいいのに。ブナやナラの木々に囲まれた野趣溢れる湯を堪能。景観を邪魔しない雰囲気の脱衣所は男女別。つづいて、小さな湯船へ。こちらの湯船へは、大きな湯船から湯が掛け流されていることもあり、湯は少しぬるめ。広さも2-4人くらいが入るのに丁度いい大きさ。こちらは雨除けの庇が付いているので、雨が降っている時にはお薦め。小さい湯船からは渓流を眺めながらの入浴を満喫。風情あって、なかなかいい感じ。連休中とあって満室だったのですが、露天を訪ねるタイミングが他の皆さんとズレたせいか、露天風呂と建物を結ぶ階段で他の方とすれ違うことはあっても、お風呂では、ほとんどの時間が貸切状態。深夜、早朝と贅沢な時間を過ごすことができました。
内湯
内湯は男女別。湯船はもちろん、洗い場まで青ヒバを使用した贅沢な造り。湯船の半円形のカーブの按配が味わい深い。天井は高く、湯気で曇る大きな窓ガラスから、庭の緑と日差しがうっすらと入り、内湯でありながら開放感があります。仄かに木の香りが漂う、この鄙びた雰囲気がたまらない。
夕食
食事は、18:00~19:00スタート。別室でいただきます。椅子席の食堂もありましたが、私たちは大広間のお座敷にテーブルが用意されていました。山の宿らしく、山菜やキノコなど、十和田湖周辺の山の恵みを取り入れた料理が中心。時期的にキノコは豊富で、ナラタケ、ブナハリタケ、タモダケの煮浸し、マコモダケやフキの天ぷら・・・ともりだくさん。魚は川魚。虹鱒のお刺身や岩魚の朴葉味噌焼きは、お酒のアテに調子がいい。その他にも、リンゴの天ぷら、あおもり牛に嶽きみのバター焼き、モウソウダケと身欠き鰊の煮物など地元青森の食材を使った素朴な品々が食卓に並びました。お酒は、地元黒石にある老舗の蔵元・鳴海醸造店の「菊乃井」でした。「燗にすると美味しいんですよ。」とおばちゃんにニッコリ出されると、こちらまでニコニコ。2人で5合飲んだだけなのに、翌朝女将さんからは「たくさん飲まれましたねぇ。」と言われました。そういえば、お酒飲んでいる人、ほとんどいなかったなぁ。
朝食
朝食は7:30から。鮎の甘露煮 温泉卵 ミズとササミの和え物 海苔、ワラビのお浸し、漬物、ご飯、味噌汁。温泉宿の朝食としては、申し分ない。山奥にある鄙びた温泉宿で、渓流のせせらぎを聞きながらの露天風呂と、素朴な山の幸にまったりした、休日のひとときでした。
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●湯川温泉 湯川山荘 (温泉宿)
住 所:平川市切明字津根川森1-32
電 話: 0172-55-2314
備 考:日帰り入浴は大人1人500円(2010年10月現在)*""*""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*""*""*"""*"""*"""*]]>
『津軽』を歩く(16)青荷温泉
http://lagattina.exblog.jp/15396464/
2010-11-16T00:53:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-11-03T18:00:43+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
縄文遺跡めぐりをした後は、温泉三昧。まずは、八甲田山中の一軒宿の秘湯・青荷温泉に向かいました。国道102号を南下し、道の駅「虹の湖」を越えた先を左折し、細く険しい青荷渓谷沿いの道をしばらく進んだ崖の上に、温泉の駐車場があります。雨の日は歩きたくないような傾斜の激しい坂道を下りきったところが、青荷温泉です。
◆青荷温泉
建物の入口には。「よぐきたねし」と書いてあります。日帰り入浴は、10:00~15:00となっていて、料金は、大人1人500円(2010年10月現在)。
温泉は4つあり、我々が向ったのは、渓流の吊橋を渡った先にある混浴露天風呂です。駐車場に車がたくさん停まっていたので、さぞかし混んでいるだろうと覚悟していたのですが・・・。混浴の露天風呂は、静かな佇まいで私たちを待っていてくれました。露天風呂の湯船は3つあり、まずは、1番大きい掛け流しの岩風呂から。温泉は無色透明の単純泉で、お湯質は柔らか~。温度も丁度いい温かさで、のんびり浸っていられます。天井の高い屋根も付いているので、雨の心配も要りません。つづいて、大きな岩風呂の正面にある、桶風呂の「子宝の湯」。手入れされた庭園の中にあり、1人で浸かっていると贅沢な気分に。
桶風呂の奥には、3人くらい入ったらいっぱいになりそうな小さな露天風呂が。お湯は少しぬるめかな。すぐ脇を小川が流れていて、開放感が抜群です。竹を伝う掛け流しの湯は、打たせ湯のようで、風情があります。脱衣所は男女別で湯船のすぐ脇にあり、扉がちゃんとついているので、何かと安心。「ランプの宿」だけに、ランプの明りが灯る夜の露天風呂は、きっと幻想的でしょうね。今回は泊まることができませんでしたが、日帰り入浴だけでも、すっかり寛ぐことができました。いいお湯でした。
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● 青荷温泉 (温泉)
住 所:黒石市大字沖浦字青荷沢滝ノ上1-7
電 話: 0172-54-8588
備 考:日帰り入浴は1人500円(2010年10月現在)*""*""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*""*""*"""*"""*"""*]]>
『津軽』を歩く(15)木造
http://lagattina.exblog.jp/15396443/
2010-11-15T17:44:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-11-03T17:54:05+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
◆木造駅
司馬遼太郎が仰天したという遮光器土偶の巨大レプリカが映画の怪獣のように駅舎いっぱいに立ちはだかっています。実物は、写真よりシュールでインパクト大。司馬は、気弱とされる津軽人も、ときに床を蹴破って起ち上がるときもある。それが、この巨像かもしれないと咀嚼しています。太宰は『津軽』の中で「木造は、コモヒの町」と書いています。コモヒは豪雪の北国特有の設えで、店の軒を通りまで張り出した回廊。駅前には、「コモヒ」の構造を残す昔ながらの商店街が続いています。●父の生家跡
商店街を通り抜けた先の郵便局がある場所に、太宰の父・源右衛門の生家で薬品問屋だった松本家がありました。
太宰は『津軽』でここを訪ねていて、家の間取りが金木の家に似ていることに気づき「何の事は無い、父は金木へ来て、自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけのことなのだ」と述懐しています。
◆三浦食堂
この日の昼食は、木造の駅前商店街で見つけた「三浦食堂」で。ここもコモヒになっています。
お昼過ぎとあって、店内は地元の家族連れ客らで賑わい、ほのぼのとした雰囲気。周りのテーブルを見渡すと、中華そば、カツ丼、かしわそばが人気のようで、カツ丼と中華そばがセットになった「Aセット」を頼んでいる人が多いようでした。みなさんガッツリ食べてらっしゃいます。
我々はそこまでのパワーがないので、大人しく、私が「かしわそば」、相棒が「中華そば」を注文します。●かしわそば
かしわそばは、かしわ(鶏肉)の削ぎ切りと白ネギがたっぷり入っています。おつゆの味は優しく、おそばには程好いコシがあり、食べる人を優しく包み込む温かみがあります。
●中華そば
中華そばは、昔ながらの和風出汁に細い縮れ麺が入り、薄いチャーシュー、刻みネギ、メンマ、ワカメがトッピング。透き通ったスープをすすると、鰹節、昆布、煮干の香りと旨みがして、脂っこい今風のラーメンとは対極の、すっきりしたまろやかなお味。スープの絡んだ麺がまた美味しく。あっという間に完食。
つがる市の遺跡から木造駅の近くに来るまで、食堂どころか、コンビニもなく、お昼はどうしましょう状態だったので、この食堂を見つけた時の嬉しかったこと!頼んだものが予想外に美味しく、幸せな気分でお店をあとにしました。こういう想定外は大歓迎。ご馳走様でした。
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●三浦食堂 (食堂)
住 所:つがる市木造有楽町33-1
電 話: 0173-42-2201
最寄駅:JR「木造」駅より徒歩15分
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『津軽』を歩く(14)北のまほろば
http://lagattina.exblog.jp/15396406/
2010-11-14T20:26:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-11-03T17:45:04+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
太宰治の『津軽』と出会うきっかけとなったのは、司馬遼太郎が『街道をゆく 北のまほろば』の中で、太宰の『津軽』を何度も引用していた上、以下のように評していたからです。
津軽への愛が、ときに含羞になり、自虐になりつつも、作品そのものを津軽という生命に仕上げていて、どの断片を切り取っても、津軽の皮膚や細胞ではないものはなく、明治以降の散文の名作・・・うまいこと書きますね。
太宰は故郷の「けかち(飢餓)」な歴史を嘆いていますが、司馬は、豊かさを形容する「まほろば」という表現を使い、「先史時代、このあたりは"北のまほろば"というべき地だったのではないか」との思いを青森の縄文遺跡を訪ね歩く中で深めています。
◆三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は、今からから5500年前~4000年前の縄文時代前期から中期にかけての集落跡で、これまでの発掘調査で、この地で長期渡る定住生活が営まれていたこと、当時の集落の様子や自然環境などがわかっています。多数の竪穴式住居の周りには食糧倉庫と思われる高床式の建物が数十棟あり、共有の倉庫の跡、ゴミ捨て場、共同墓地、植林した栗林などが見つかっています。
住居群から谷を隔てた向こう側には、共同墓地が。約1000年間の生活の廃棄物が堆積した盛土遺構の断面も見られます。集会所や冬の間の共同家屋として使われたと思われる長さ32m幅10mの大型竪穴住居跡のそばには、栗の巨木の柱跡が6箇所発見され、その位置や深さ、残っている柱材から、楼閣跡ではないかと推測されています。右下の遺跡を発見し、復元したのが左下の写真。「地下には真実、地上にはロマン」とボランティアガイドさん。なるほど!真実に基づいた復元だけど、そこにはロマンがある、それが考古学の魅力なのかな。出土品の中に、紐通しの穴が綺麗に貫通した翡翠があります。翡翠は越後の糸魚川から運ばれたもので、縄文人の技術力と行動力を窺い知ることが出来ます。司馬は『街道をゆく 北のまほろば』の中で三内丸山遺跡を「翡翠の好み」という章で紹介。大きな塔が聳える集落があった縄文期に想いをめぐらせています。
ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのにちがいない。
人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が―この翡翠をくびからぶらさげて―待っていたであろうことを想像した縄文人の技術力は、遺跡内にある「さんまるミュージアム」で見ることができます。
発掘された縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、漆器などの出土品から、彼らが栗や豆などの植物を栽培し、タイなどの魚を食べ、布や漆器を作ていたことがわかります。5000年前にこれだけ文化的な生活がなされていたことに驚きました。縄文遺跡についてしっかり学習した私たち。時間はあるし、せっかくレンタカーも借りたことだし・・・と、縄文後期・晩期の遺跡で、遮光器土偶が発掘された亀ヶ岡石器時代遺跡を訪ねてみることにしました。
●亀ヶ岡石器時代遺跡
のびやかに広がる津軽平野の田園地帯を走っていると、唐突に巨大なモニュメントが現れました。慌てて車をバックして停めます。ここ亀ヶ岡は古くから甕が出土したところから甕ヶ岡と呼ばれ、いつの頃からか甕の字が亀に変わったとのだそうです。亀ヶ岡遺跡には、ご覧のような、大きなモニュメントが建っていますが、三内丸山のような復元施設はもちろん、解説の立て札1つなく、他にはログハウス風の立派なトイレがあるだけ。
・・・周囲は草ボウボウ。当時のことを思い浮かべようにも、素人の想像力では太刀打ち出来ない。三内丸山遺跡から高速飛ばして車で1時間かけてやってきた私たち、すっかり途方に暮れてしまいました。
ここに来る途中に「縄文館」という考古学資料館への道路案内があったことを思い出し、そこを訪ねることにしました。
●考古学資料館「縄文館」
畑の中の狭い道路を通り抜け、鬱蒼とした林の中をくねくね走り、目の前けたところに、ひっそりと考古学資料館「縄文館」がありました。建物に入ってすぐ左手が展示室。ガラスケースに、亀ヶ岡遺跡から出土した1000点余りの土器や石器を展示してあります。無造作に展示してあるだけなんですが、手渡された資料やその展示内容が、非常に充実していることに、驚かされました。展示室には、籠に赤漆を塗りつけて作った藍胎漆器、赤い顔料で色付けした漆塗彩色土器、漆が着色した漆こし布など貴重な資料が、たくさん。3000年前の優れた造形技術やその芸術性を知ることができます。
発色が良く、漆の製法技術を縄文人がすでに会得していることを証明。首のない遮光器土偶もあれば、写実的な土偶もあり、耳飾やネックレスに使用されたと思われる玉 土偶も見つかる緑や白色の石などが見つかり、身なりに気を配っていたことが推測されます。
三内丸山遺跡と亀ヶ岡遺跡を続けて見たので、縄文中期と後期の土器の違いも良くわかり、わざわざ訪ねて来た甲斐がありました。大満足。ここで出土された遮光器土偶のことをもう少し知りたくて、木造の考古学資料館へも足を運ぶことにしました。
●つがる市縄文住居展示資料館・カルコ
カルコという名前は、
Kamegaoka
Archaeology
Collecthions
の頭文字を取ったネーミングなのだとか。アカデミックでありながら親しみやすい、素敵な名前ですね。ここでは、亀ヶ岡遺跡からの出土品約1000点を展示しています。亀ヶ岡遺跡を代表する出土品がこちら「遮光器土偶」。デフォルメされた目が古代北方系民族が使用していた遮光器(サングラス)に似ていることから、この名がつけられました。国の指定重要文化財に指定され、実物は文化庁が所有しているため、カルコでは拡大したレプリカを展示しています。2階の展示室には、縄文初期から後期にかけての変遷や、江戸時代の発掘の様子などがわかりやすく展示してあります。装飾された土器の花や葉を抽象したような模様などから、縄文人の美に対する探究心がうかがえます。津軽の縄文遺跡や資料館を訪ね歩いて、津軽が今から5000年以上も前から栄え、なおかつ高い文化を持っていたことがよくわかりました。司馬遼太郎は、この豊かさを「まほろば」と表現したのですね。
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『津軽』を歩く(13)青森
http://lagattina.exblog.jp/15378330/
2010-11-13T22:46:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-10-31T10:46:57+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
太宰の『津軽』は旧制青森中学時代の思い出から始まります。
きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、それ故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。
青森の町は、太宰が書くように「旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない」つかみどころがない町。この海岸の小都会での下宿生活で、太宰は文学に目覚め、本格的な執筆活動を始めます。
◆旧制青森中学校跡
太宰が通った旧制青森中学校は、現在、青森市営野球場になっています。球場の駐車場の裏手が、正門跡。校舎は、青森空襲で焼けてしまい、門のコンクリートの土台だけが、当時の名残を留めています
。
球場の前には、1950年にこの球場で巨人の藤本投手が、日本プロ野球史上初の完全試合を達成したことを祝う記念碑が建っていました。
◆合浦公園
球場に隣接した合浦公園は、太宰が『津軽』で「中学校の裏庭と言っていいほど、中学校と密着していた」「海峡に面したひらたい公園」と書いた公園です。公園の由来を紹介する案内板によりますと
合浦公園は、津軽藩のお抱え庭師だった水原(旧姓柿崎)衛作が、時の県令山田秀典の支援を受け、1821年に着工。工事中に県令が死亡し、資金難に陥った衛作は、資財を投じて造園を続けますが、過労により44歳で死亡。彼の意思を弟の巳十郎が引継ぎ、1834年に公園を完成させ、当時の青森町に寄付したそうです。この兄弟あっての公園なんですね。
敷地内には、公園の造営に献身的な奉仕をした兄弟の銅像が建っています。公園の中心には、津軽の歴代藩主が酒を献上した樹齢470年を越える「三誉の松」が。松の木の林を通り抜けると海辺が。私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。
太宰はこの公園を気に入っていたようで、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩く裏道を使って学校に通っていました。海辺からは、太宰が、青森時代の一時期、湯治に来ていた母と姉と一緒に暮らした、太宰曰く「どこかすれたような」浅虫温泉も遠望できます。
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『津軽』を歩く(12)小政酒道場
http://lagattina.exblog.jp/15378285/
2010-11-12T00:25:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-10-31T10:33:18+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
青森で飲むなら、「ふく郎」か「小政酒道場」で悩む人が多いようなので、青森2日目の夜は、その後者にトライすることにしました。雨の中歩いて店まで行ったのに、店はなんと移転されていました。今回の旅は、何かとリサーチが甘い私です。とほほほ。時刻はすでに20時をとうにまわっています。貼紙にある連絡先に電話して、移転先の場所を確認したところ、新店はタクシーで1メーターくらいの距離にあり「本町の常光寺前」と言えばわかるとのこと。タクシーで移転先のお店へ向うことに。
席に着くなり、お通しが2品が。お品書きに郷土色は少なく、フツーの居酒メニューが並んでいるという印象でしたが、日本酒は青森の地酒が揃ってます。
*日本酒:ん / 三浦酒造(弘前)
田酒 / 西田酒造店(青森)
*お通し:ホタテのサラダ、白身魚のカルパッチョ
*イカ団子
*鮪の刺身
*鮭ハラミ焼き
●お通し
お通しは、ホタテとレタスのマヨネーズ和えサラダと、ドレッシングで和えたヒラメのカルパッチョの2品。好んで食べたいと思わない品が有無を言わさず2品ずつ出てきてしまった・・・。もちろん有料。お品書きによると、1品につき300円とある。
●イカ団子
お薦めのイカ団子。ソースがかかった千切りキャベツに隠れて作り置きのイカ団子が。
●鮪の刺身
本日お薦めの鮪の刺身、出てきたのは、冷凍のメジマグロでした。
●鮭ハラミ焼き
こちらは、焼きたての熱々が供されます。脂ノリノリ。
ここは、青森の地酒「田酒」を気軽に飲める居酒屋。青森の郷土料理を肴に日本酒を愉しむ店というイメージがあったのですが、ちょっと違ったかな。日本酒の種類はあるけれど飲む客が少ないせいか、若い店員さんが扱いに慣れてないようで、どちらかというと若者のグループがキャーキャーワイワイ飲む系の店な印象。お通しには、お店のセンスや心意気が表れるといいますが、なるほど、という感じ。田酒が呑めたからまあ良しとしましょうか。
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● 小政酒道場 (居酒屋)
住 所:青森市本町2丁目
電 話: 017-722-3035
最寄駅:JR「青森」駅より徒歩10分
備 考:支払いは現金のみ*""*""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*"""*""*""*"""*"""*"""*
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『津軽』を歩く(11)三厩~今別
http://lagattina.exblog.jp/15376788/
2010-11-11T23:23:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-10-30T23:32:44+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
『津軽』の太宰は、蟹田から今別のMさん宅を目指し、本覚寺を訪ねた後、三厩の宿に泊まり、義経寺を経て竜飛岬に向かいました。公共交通機関の都合で、蟹田から直接竜飛へ直接向かった我々は、竜飛から今別へと、逆のルートで、太宰の足跡を辿りました。
竜飛岬⇒⇒(外ヶ浜町三厩地区循環バス)⇒⇒義経寺
竜飛岬からは、三厩駅から乗ってきた外ヶ浜町三厩地区循環バスで、そのままUターン。三厩駅の手前の、義経寺の停留所で下車します。源義経は、津軽から、蝦夷に渡り、さらにはモンゴルに渡ってチンギス・ハーンになったという途方もない伝説は、東北地方では真剣な形で残っていています。その名から想像できるように、この「義経寺」も然り。
◆龍馬山・義経寺
太宰は、江戸中期の医者・橘南谿の旅行記『東遊記』を引用しながら、義経寺の伝説を紹介しています。それによると、この寺は、義経が平泉から逃れて蝦夷に渡る際、海が鎮まるように祈りを捧げ、海を渡る為の龍馬3頭を給わった伝説の場所。義経が龍馬を給わったから、龍馬山・義経寺、という訳です。寺は小高い丘の上にあります。幸い、季候は、涼しく爽やかで、時間はたっぷりあります。太宰とN君が登った170段の石段を登ってお寺を訪ねることにしました。『東遊記』で紹介するところによると、この寺には、義経が海が静まるのを祈った際、波打ち際に置いた観音像「義経の風祈りの観音像」が納められているのだそうです。堂の扉に、源氏の家紋である笹竜胆の紋を見つけた時のやり取りを思い出します。
私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、「これか。」と、また言った。
「これだ。」N君は間抜けた声で答えた。
太宰は、義経や弁慶ゆかりの伝説を、信じたいと思ったが駄目であった としています。義経寺からは、三厩漁港と、下北半島が見渡せます。ここを義経も渡ったのでしょうか。
◆厩石公園
義経寺の石段を降りる途中、大きな岩の存在に気がつきました。太宰が『津軽』で『東遊記』を引用したところによる、波打ち際に大なる岩ありて馬屋のごとく穴三つ並べり。です。この岩窟こそ、義経が給わった3頭の駿馬が繋がれていたとされる厩石。岩には厩(馬屋)とされた穴が三つあり、三厩という地名の由来となっています。岩の前には「源義経龍神塔」「静御前龍神塔」が祀られています。司馬遼太郎は『街道をゆく 北のまほろば』の中で、チンギス・ハーンにまで想像を膨らませる「東北人の想像力には、跳躍力もある」と評しましたが、太宰は、故郷の伝説に奇妙な恥ずかしさを感じ、石段を無言で降り、その巨岩の前をことさら急いで通り過ぎた のでした。三厩駅に向って国道339号を南に歩き始めると、国道280号との境界に行き当りました。この空き地となっている場所に、太宰の『津軽』に登場するMという旅館がありました。
◆Mという旅館跡
太宰は今別で買った2尺の鯛をこの旅館に持ち込み、鯛を一尾のまま塩焼きにするよう頼みます。これにN君が「そのまま塩焼きにするんですよ。・・・ことさらに、三等分の必要はないんですよ。」と言い添えたことが災いしてか、鯛は5片の切り身の「やきざかな」にされ、地団太を踏む思いをします。自分は、一尾のまま焼いた鯛を眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのだと口惜しがる太宰に対し、N君は「三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った、しゃれているよ。」とわけのわからない乾盃を強いてくる始末。酩酊し、ひとり早寝をする太宰・・・。『津軽』の酒席の場面は、どれも可笑しい。◆三厩駅
義経寺からのんびり1時間程かけて散策しながら、JRの三厩駅に戻ってきました。
◆津軽浜名
三厩駅から、隣駅の津軽浜名駅までは普通列車で約5分。ここから、『津軽』に登場する本覚寺、Mさんの家を順に見て歩き、隣の今別駅まで徒歩で移動します。
北海道新幹線の「奥津軽(仮称)駅」がこの近くで開業を目指していて、町のあちこちで、新幹線の開業を心待ちにする貼紙が見られました。◆本覚寺
太宰は、今別のMさん宅で酒を飲んだ後、本覚寺を訪ねています。
N君が「今別へ来て本覚寺を見なくちゃ恥です。貞伝和尚は外ヶ浜の誇りなんだ」と力説したように、本覚寺を有名にしたのは中興の祖5世貞伝和尚です。
境内には、貞伝和尚が作り その下の穴に入って即身成仏したといわれる「南無阿弥陀仏」が刻まれた青銅の塔婆、隣には大仏像があります。
太宰一行は、ここでおかみさんらしいひとから寺の説明を聞きます。熱心に質問するN君のせいで 「実にひどいめに逢った」と太宰は書くのですが、3人の酔っ払いの相手をさせられたおかみさんの方が気の毒な気が・・。
◆Mさんの家
本覚寺から今別駅に向う途中に、太宰が立ち寄ったMさんの家とMさんの親戚が営む薬局があります。
観瀾山での花見の宴で太宰と文学について語ったMさんの書斎で、太宰が好きなフランス人の詩人ポール・ヴェルレーヌの全集を見つけます。そこで再び橘南谿の『東遊記』を引き合いに出し、「礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到つて或いは失神するかも知れない。と溜飲を下げています。
◆今別駅
今別の駅の周囲には何も無く、駅の待合室で『津軽』を読みながら、ただただ列車を待つしかありませんでした。
が。名古屋に戻ってから、今別駅の近くに奥津軽いのしし牧場があることを知りました。すぐ近くに猪がいたとは!猪好きとしては不覚としか言いようが無い。あぁ、猪が飼育されているところ見たかった、猪料理の店もあったかも・・と大反省。地団太を踏む思いとは、こういうことね。
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『津軽』を歩く(10)竜飛岬
http://lagattina.exblog.jp/15371828/
2010-11-10T23:56:00+09:00
2011-04-06T00:10:42+09:00
2010-10-29T23:58:19+09:00
lagattina
旅:津軽 2010
『津軽』での太宰は、蟹田から今別のMさんのお宅に寄って、本覚寺でありがたいお話を聞いた後、三厩の宿に1泊し、その後、歩いて竜飛岬に向かいます。我々は、運行本数が少ない列車とバスの乗継ぎの関係で、蟹田から一気に竜飛岬を目指すことにしました。
JR「蟹田」駅⇒⇒⇒⇒JR「三厩」駅
蟹田から三厩までは、JRの普通列車で40分程かけて移動。
JR「三厩」駅⇒⇒(外ヶ浜町三厩地区循環バス)⇒⇒「郵便局」停留所
三厩駅を出たら、カラフルなバスが待っていました。三厩からは、この外ヶ浜町三厩地区循環バスで竜飛岬に向かいます。
料金は一律200円(2010年10月現在)。
駅を出発したバスが、国道280号を経て国道339号に入ると、道が狭くなり、潮の匂いが漂ってきそうな漁村を北へ北へと走ります。バスに揺られること20分。太宰の小説『津軽』に登場する奥谷旅館や、文学碑を見て周りたかったので、終点より3つ手前にある「竜飛岬郵便局前」で下車することにしました。
我々の竜飛岬での持ち時間は、乗ってきたバスが再び三厩駅に戻るまでの45分間。急ぎ足で見学を始めます。
◆太宰治文学碑
路がいよいよ狭くなつたと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ
竜飛にたどり着いた瞬間の印象を、太宰は『津軽』でこう表現しています。現在は、太宰治文学碑が竜飛を訪れた人を最初に出迎えてくれます。
ここは本州の袋小路だ。読者は銘肌せよ。・・『津軽』の一説が刻んであります。
◆旧奥谷旅館(龍飛岬観光案内所)
文学碑の道路を挟んだ向かい側に、『津軽』に登場し、太宰がN君と宿泊した旧奥谷旅館が、観光案内所として残っています。この旅館でも酒にまつわるエピソードが。
「ええと、お酒はありますか。」
「へえ、ございます。」
「いや、おばあさん、
僕たちは少し多く飲みたいんだよ。」
「どうぞ、ナンボでも。」
旅館が、配給の酒を飲まない人の家からたくさん集めていたことを知った2人は、とことん飲みあかそうとしますが・・・酔いが早く回ったN君のおそろしい蛮声の酷い歌のせいで、「歌コもでたことだし、お休みなせえ」とさっさとお膳を下げられてしまいます。
N君の酷い歌で泣き寝入りした翌朝、太宰は、童女の手毬歌で目覚めます。その「美しい発音」に「希望に満ちた曙光に似たもの」を感じ、心を打たれた太宰は、佐藤理学士の言葉を借り、「明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透」したと言祝いで、外ヶ浜の章を結びます。
◆階段国道
竜飛岬を目指すべく、案内板に従って、集落の狭い路地にしか見えない国道を通り抜けると、目の前に階段が現れます。竜飛岬の高台と竜飛の集落結ぶこの362段の階段も国道339号線。日本で唯一の階段国道です。
早足で階段国道を10分程で登りきり、白亜の灯台を通り過ぎると、太宰曰く「あとは海に転げ落ちるばかり」の竜飛岬。その名に相応しい強風が出迎えてくれました。
竜飛崎から対岸の北海道白神岬までは直線で19.5km。うっすらとですが対岸を確認!! 日露戦争の時には、この狭い海峡を、ウラジオ艦隊が通過したんですね。すぐ目の前を航行する艦隊を見た竜飛や北海道の人たちは、さぞ震撼したことでしょう。地図を眺めているだけではなかなかイメージできない。実際に来てみないとわからないものですね。◆吉田松陰詩碑
北方の防備を憂いた幕末の志士・吉田松陰は、津軽海峡を外国船が堂々と横行する様子を見るために、東北遊学の際に、竜飛岬を訪ねています。岬の高台に松陰の来訪を記念する詩碑が、建っています。
去年の今日巴城を発す
揚柳風暖かに馬蹄軽し
今年北地更に雪を踏む
寒沢卅里路行き難し
行き尽くす山 河萬夷険
滄溟に臨みて 長鯨を叱せんと
時平らかにして男児空しく
誰か追う飛将青史の名◆津軽海峡冬景色
ある一定以上の年齢の日本人にとって、津軽海峡と言ったら、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を思い浮かべるのではないでしょうか。竜飛岬には「津軽海峡冬景色」の大きな歌碑が鎮座。赤いボタンをそっと押すと、
♪ ごらんあれが竜飛岬 北のはずれとぉ~
見ぃ~知らぬ~人が 指を~さすぅ~ ♪
びっくりするような大音量で、「津軽海峡冬景色」の2番が流れ始めます(汗)それまでのひっそりとした雰囲気が一転し、ボタンを押した私、要らぬ注目を集めることに。なんだか気まずく、ドキドキしましたが、なんてことない、その後、誰か彼かがかわるがわるボタンを押し続け、バスが出発するまで、延々と「津軽海峡冬景色」の2番を聞き続けることになりました。(おかげで旅行中ずっとこの歌が頭の中でリフレイン・・・)バスが三厩駅に向って走り出した時は、ほっとしました。
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