7月20日(日)
戊辰戦争では多くの女性が主君に身を捧げて死ぬことになりました。娘子隊を率いて戦い、22歳の若さで戦死した中野竹子もそんな女性の1人。この日の午前中は、竹子ゆかりの地を訪ねることにしました。
◆涙橋
会津若松の中心から北西に離れた神指町にある「涙橋」は、戊辰戦争の際、激戦が繰り広げられた場所の1つ。
西軍が城下に迫ると、竹子は薙刀を手に、娘子隊を率いてこの涙橋の戦場に出撃。奮戦したものの、敵弾に倒れ、一緒に出撃していた妹の手により介錯されるという、壮絶な死を遂げました。
当時、橋の付近に処刑場があり、この橋の袂の井戸水で別れの水盃を交わしたことから、柳橋という本来の名前ではなく、涙橋と呼ばれるようになったそうです。橋の袂には、井戸の跡が残っていました。
◆中野竹子の石像
涙橋からすぐの川のほとりに、薙刀を持った中野竹子の像と石碑が、ひっそりと建っています。竹子は薙刀の名人で指導者でもあったので、きっと、一対一の勝負では負けなかったかもしれません。でも、戦場は一対一の戦いではありません。混戦や接近戦は、当たり前。しかも、鉄砲を持つ相手に、薙刀で対抗する訳ですから、どう考えても歩が悪いように思えてなりません。武士道で戦争は勝てない・・・。
竹子は、辞世を詠んだ短冊を、薙刀に結びつけ、戦いに臨み、短い生涯を終えました。
武士の 猛き心にくらぶれば
数には入らぬ 我が身ながらも◆法界寺
中野竹子が戦死した涙橋から、北西に10km程離れた会津坂下町にある法界寺。ここに、竹子は眠っています。
中野竹子は、江戸詰勘定役の会津藩士・中野平内の長女として江戸に生れ、幼少の頃から薙刀や書道に研鑽。書に優れ、薙刀の名人という、文武両道に秀でた女性だったそうです。本堂の横の一室には、竹子の遺品や書を収蔵した展示室があります。
母屋に声をかけると、遺品を見せていただけます。白虎隊記念館で、竹子の額字を見た時にも思いましたが、こちらに残されたどの書も、竹子の凛とした美しさと強さが良く表れています。