3日目(8月16日) つづき
司馬遼太郎の『街道をゆく 叡山の諸道』を片手に、比叡山の西麓の雲西坂の登り口界隈にいます。
僧兵が、高歯の下駄をとどろかせながら山から降りてくるときも、多くはこの雲母坂を経、赤山大明神のそばに出た。(司馬遼太郎著『街道をゆく 叡山の諸道』より)
●赤山禅院
赤山禅院は、最澄によって開かれた天台宗を大成させた弟子の円仁(第3世天台座主・慈覚大師)の遺言によって創建された比叡山延暦寺の別院です。日吉大社が叡山東麓の守護神であるのに対し、叡山西麓の守護神とされています。
参道の入口には大きな石鳥居が建ち、扁額には「赤山大明神」とあります。鳥居をくぐって参道を進むと、周りは静かになり、鬱蒼とした木々に埋もれるように山門が現れます。
門の左側には「赤山禅院」、右側には「天台宗修験道本山官領所」の札がかかっています。
門をくぐると、道はゆるやかにのぼりになっている。道の両側には石垣が組まれ、その上に盛土されて樹相の古い林がつづいている。(司馬遼太郎著『街道をゆく 叡山の諸道』より)赤山禅院を訪ねた司馬遼太郎は、本尊の赤山大明神が、じつは中国の道教の神である泰山府君であること、その赤山大明神を円仁が崇拝することになったいきさつ、日本に伝わった赤山大明神がさまざまな顔を持つようになったことなどについて、思いをめぐらせています。
円仁入唐の後半の成功というのは、唐に居留する新羅人の僧俗吏民の親切に負うところが大きかった。「赤山」という地名は忘れがたいものになり、叡山に戻ってからも入唐の願難を語るごとにこの地名とひとびとの親切に触れたかと思える。その赤山という地名を冠した寺が、叡山の西麓にある。(
司馬遼太郎著『街道をゆく 叡山の諸道』より)日本の叡山西麓の赤山にまで飛んできた泰山府君は、その本来の神の機能を本土に置きわすれたのか、人々の寿命をあずかるということをせず、延命富貴を御利益とはしつつも、商売のかけとりの神になった。(司馬遼太郎著『街道をゆく 叡山の諸道』より) 司馬遼太郎は、拝殿の屋根に鎮座する猿の像に目を留めます。
赤山大明神は山王日吉大権現とともに叡山の守護神である。後者の使者が猿であることと無縁だろうか。(司馬遼太郎著『街道をゆく 叡山の諸道』より)
司馬遼太郎が、ここでわかったことは、赤山禅院が叡山の別院であること、千日回峰の行者が800日目に苦行をする管領所であることだけだったようです。本場の道教のつながり、その後の新羅との関係などについての手がかりを見つけることができないまま、ここを立ち去っています。