4日目(5月4日・木)
この日は、高雄へ出かけることにしました。
●台鐵「台南」駅台南 8:10→(区間車)→ 高雄 9:08朝から気温27度。きょうも暑くなりそうです。
高雄までの列車の数は多く、区間車(普通列車)で約50分。司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』で高雄について書かれたところを読み直しながら移動します。
司馬遼太郎は、高雄の地名考として、無名の山地人、17世紀以降に大陸から高雄へ渡って来た人々、後からやってきた中華民国について触れています。
十七世紀頃の漢人が、山地人から”タアカオ”という発音をきいて、「打狗」という漢字を当てたかと思える。狗ヲ打ツなどという字を最初にあてた人は、よほど虫のいどころが悪かったのにちがいない。(司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』より)日本統治時代に音の「タカオ」は残して表記が「高雄」に改められます。
第二次世界大戦後、台湾が中華民国領になってから、文字は日本時代のままにして、カオシュンと北京語でよばれるようになった。山地人の地名だったタアカオは消えた。(司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』より)
●台鐵「高雄」駅●高雄MRT高雄 9:34→(MRT)→美麗島→(MRT)→ 9:47 市議会高雄は地下鉄が整備されていて、駅も車両も綺麗なのだけれど、台北より運行数も乗客も少ない印象。名古屋の地下鉄で例えるなら、桜通線みたいな感じかしら。
●愛河 高雄の官庁街を横切って愛河の畔へ。愛河は、日本統治時代に開拓した運河で、高雄川、または高雄運河と呼ばれ、この運河を挟んで高雄州庁と高雄市役所が建てられていました。
司馬遼太郎は、愛河の風景をとても気に入ったようです。
高雄は河畔がうつくしい。河に沿った公園を歩いていると胸がひろがる思いがする。(司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』より)
高雄市は、珊瑚石灰岩の上に載っているそうである。地質時代の古生物の骨や殻の上にいるかと思えば、ヒトの文明など単なる傲りではないかと思えてくる。が、私にはヒトの営みが懐かしい。(司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』より)中正大橋を渡った先に旧高雄市役所があります。
●高雄市立歴史博物館(旧高雄市役所)旧高雄市役所は、1938(昭和13)年竣工の典型的な帝冠樣式の建物で、現在は高雄市立歴史博物館として使用されています。1900年代初頭に台北あたりに建てられた重厚な建築様式とは一変、装飾をそぎ落とした近代建築の上部に日本建築の屋根を乗せた和洋折衷の造りとなっていて、外壁は空爆の対象から逃れるため、当時「国防色」と呼ばれた浅緑色となっています。
この旧高雄市役所は、終戦により台湾を接収した中国国民党政権が、台湾に住んでいた人々を弾圧した1947年の「二二八事件」の虐殺の舞台ともなりました。
高雄のホテルで、柯旗化氏の『台湾監獄島』を読んだ。
『台湾監獄島』によれば、高雄市ではトラック4台に分乗した政府の兵が、高雄市庁を襲い、居あわせた市会議員をほとんど皆殺しにした。さらに4台のトラックは商店街を走りぬけ、車上から乱射して市民数百人を殺した。この無用の政府の威信の誇示が、このひとつの島のなかで、「中国人」(大陸系)と「台湾人」(本島人)という、ふたつの人種をつくる結果になった。(司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』より)館内の高雄の歴史を紹介する常設展には、二二八事件に関する資料や、当時の様子を再現したジオラマなどが
展示してあるそうです。ふたつの人種との間に出来た溝は、今も完全には解消されてはいないようです。
●高雄市二二八和平公園博物館前に二二八和平公園があります。司馬遼太郎曰く
「第二次大戦のあと、この島にきて戒厳令を布きつづけた人の銅像」が立っています。
司馬遼太郎は、銅像が多いことを揶揄して、
「火星人がもし台湾にくれば金属の糞が多いのでびっくりするだろう」という言葉を「台湾紀行」に残しています。
●臺灣銀行高雄分行 中正大橋のたもとにある台湾銀行高雄分行は、四角いビルに天守閣状の屋根を載せた帝冠樣式を思わせる造りだったので日治時代の建築物かと思ったのですが、帰国して調べたら、民国36年(1947年)建築の中華民國時代の建物だとわかりました。
●高雄MRT「鹽埕埔」駅鹽埕埔 10:45→(高雄MRT)→ 西子灣10:49愛河界隈の散策を終え、旗津へ向かうため、フェリー乗り場のある「西子灣」駅までMRTで移動することにしたのですが、最寄の「鹽埕埔」駅構内に入ってびっくり。
萌えキャラのポスターだらけ。2人のキャラの等身大パネルもあったりしたのですが、他にもあるかなと撮り損なってしまいました。かなりのインパクトがあったので、ちょっぴり後悔してたりして。