国道382号線を北上し、大船越へ。
●大船越
対馬はもともと全島が地続きの溺谷だったため、一方の海面から舟を揚げてしばらく陸路を運び、他方の海面へ浮かべる「船越」がありました。
1672年(寛文12年)に大船越が開削され、東西を船で行き来できるようになりました。
大船越の堀切は、当時あった権現山という山を掘りくずし、地を一直線に断ち割って、日本海の水を浅茅湾に通わせている。橋上から船越瀬戸をみると水がしずかに青み、両岸の漁家のたたずまいもよく、17,18世紀のオランダの銅版画にすれば美しいものができるのではないかと思われた。(司馬遼太郎著『街道を行く 壱岐対馬のみち』より)大船越の東岸に、「大船越瀬戸堀切由来の碑」が建っています。
そのすぐそばの草むらに「口止番所小舟改跡」と刻まれた石柱があります。
江戸時代、大船越瀬戸には、船改めの番所が置かれ、出入する船舶を監視していました。1861年(文久元年)4月、ここを強引に通過しようとしたロシア艦のボートを阻止しようとした村人が射殺される悲しい事件が起こりました。
●松村安五郎と吉野数之助の碑
事件で死亡した松村安五郎と吉野数之助を称える碑が、番所跡の対岸の山麓にあります。
事件は、幕末の1861年(文久元年)2月、ロシア軍艦ボサドニック号が浅茅湾の芋崎に上陸して占拠したところから始まります。同じ年の4月、大船越の瀬戸を強引に通過しようとしたロシア艦のボートを身を挺して制止しようとした松村安五郎が、ロシア士官によって射殺されます。また、番所の士卒・吉野数之助は、ロシア艇に捕らえられ、ポサドニック号に連れ去れました。その後、数之助は釈放されましたが、傷の手当てを拒み命を絶っています。
のちに二人は戦没者の待遇をもって靖国神社に合祀され、大船越の西岸にも、まず松村安五郎の碑が、続いて、吉野数之助の碑が左に並んで建てられました。
そのまま北上すると間もなく、赤色のアーチ橋の「万関橋」が見えてきました。
●万関瀬戸
先程の大船越は水深が浅かったために、旧日本海軍は、明治後期の1900年、軍艦を通すために久須保という入江の万関瀬戸を開削しました。
万関橋から、万関瀬戸を見下ろして・・・
1905年(明治38年)の日露戦争の日本海海戦では、水雷艇隊が万関瀬戸を通って出撃し、日本の勝利に貢献しました。
山から山に橋がかかっていて、足もとのはるか下が定規で線を引いたような平行線よりなる行儀のいい運河が掘り切られている。土地では、万関瀬戸という。明治の海軍がつくったものである。(司馬遼太郎著『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)