8月13日(木) つづき
小木街道を北上し、真野湾まで戻ってきたところで、少し時間があったので、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の文学碑のある真野公園に立ち寄りました。
●真野御陵
まずは、真野公園の一番奥にある真野御陵へ。杉木立の奥に、順徳天皇の火葬塚があります。
思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは
順徳天皇は、鎌倉幕府の倒幕を図った承久の乱に敗れ、佐渡流罪となり22年。帰京の望みを失ったことに絶望し、絶食の果て46歳で亡くなったと伝えられています。辞世からは無念の思いが伝わってきます。
●真野宮
真野御陵のすぐ近くに順徳上皇を祀った真野宮があります。
歌人として名高かった順徳天皇の歌は、百人一首に選ばれています。
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
●真野公園
真野御陵、真野宮のある丘陵地一帯が整備された真野公園の一角には
佐渡にゆかりのある著名人や文化人の15の作品を文学碑として建立した文学の散歩道が作られています。
●御製
文学の散歩道の最初の文学碑には、昭和天皇が佐渡行幸の際、順徳天皇の火葬塚を参拝された後に詠まれた御製が刻まれています。
ほととぎす ゆふべききつつ この島に いにしへおもへば むねせまりくる
散歩道を進んでいきます。
●司馬凌海
司馬凌海は、幕末の佐渡が生んだ天才的語学者。松本良順に師事し、長崎の医学伝習所でポンペの講義を通訳しながら漢文で筆記する異能ぶりで良順を補佐、我が国初の日独辞典「和訳独逸辞典」を出版しました。司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』では、主人公のひとり伊之助として登場。もの覚えについては悪魔的な能力を発揮するものの、人間社会で生きていく作法を身に付けることができず、社会から孤立してしまう身の上が描かれています。
新町の自宅から知人を訪ねた時の感情を詠んだ歌が刻まれています。
郷隣 秋老いて 歓事稀に 閑を追うて 今日 君が扉を叩く
満堂の詩思 稿 尽きず 一向に 齋持して 月路に帰るさらに奥へと進みます。
●山本修之助
山本修之助は、佐渡の郷土史家。山本家は江戸時代に真野で本陣を務め、司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』で山本半右衛門、通称「はんねむさん」で登場。山本修之助は、その山本家の11代目。『街道をゆく 佐渡のみち』の取材旅行で佐渡を訪れた司馬を、息子で12代目の山本修巳とともに案内しています。
東京で療養中にふるさとの真野を偲んだ歌です。
夢にみる ふるさとの真野の山 春くれば緑の色の深からむ山本修之助に続いてあるのが司馬遼太郎の文学碑。
●司馬遼太郎
司馬遼太郎の石碑には、幕末から明治にかけて近代医学の導入に情熱を燃やした若者たちを描いた群像劇『胡蝶の夢』の冒頭分の自筆原稿が刻まれています。
司馬がこのために書き起こし、原作とは微妙に違うらしいと聞いていたのですが、すぐにはわからず、相棒と読み合わせしてやっと発見。
佐渡は越後からみれば、波の上にある。・・・・かれの故郷の新町は、真野の浦に面している。大きく湾入したこの入江には白砂と青松でふちどられ、北からかぞえれば、雪ノ高浜、長石の浜、恋が浦、越ノ長浜なとどいった美しい浜がつらなり、かれの在所である新町は、恋が浦にもっとも近い。(司馬遼太郎著『胡蝶の夢』より)
原作では、「入江には」となっている部分が、石碑では「入江は」となっています。異なる部分は、その1字だけだったようです。どういう思いで1字を変えたのでしょう。
蚊に刺されながらの散策を終え、本日の宿のある七浦海岸へ移動します。