司馬遼太郎の『街道をゆく 島原・天草の諸道』を読みながら、天草下島の西側を北上しています。
●上田家庄屋屋敷
天草下島の高浜には、この地で代々庄屋を受け継いだ上田家の屋敷が残されています。
上田家は、大阪夏の陣で大阪城落城後にこの地に隠栖した真田幸村の家臣・滋野氏を祖としと伝えられているそうです。
この屋敷は、7代目当主・上田宜珍の時代(1815年)に建築されたもの。宜珍は、伊能忠敬の天草測量に接待役として随行し、測量術を学んだ知識人。
高浜特産の良質な陶石を利用した窯業で、村人の暮らしを支えようと奮闘。「高浜焼」という磁器を作り出しました。
高浜焼きは、今も上田家の子孫や数軒の窯元に引き継がれています。
●天草灘
頼山陽や与謝野晶子が歌を詠んだ天草灘を見ながら西海岸を北上しています。
天草は、旅人を詩人にするらしい。・・・頼山陽が「呉耶越耶」といったり、与謝野晶子が「江蘇省より秋風ぞ吹く」と詠んだりしたのは、気分として大げさではなかったことがわかる。水平線そのものが、はるかな未知の境いから文明の響きをひびかせてくれるような気がする。「天草というのは、山も海も、ものを言っているみたいですね」右側の水平線を見ていた須田画伯が、いった。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)●頼山陽の詩碑
富岡城に向かう途中に、頼山陽公園という立派な公園があります。
公園には頼山陽の名吟「泊天草洋」を刻んだ大きな詩碑が建っています。この詩は、頼山陽が、富岡城下で開塾していた儒者・渋江龍淵を訪ねた時、天草灘を見て詠んだと伝えられています。
詩碑の下にも詩碑があり、頼山陽についての音声案内もあります。
雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮
萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒
瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月
雲か山か呉か越か 水天髣髴として 靑一髮
萬里舟を泊す天草の洋 烟は篷に横たはりて日漸く没す
瞥見す大魚の波閒に跳るを 太白船に当たりて明月に 似たり
富岡城へ向かいます。