司馬遼太郎の『街道をゆく 島原・天草の諸道』を読みながら、原城跡へ。
●原城址
原城は、明応5年(1496年)、島原の領主・有馬貴純が、日野江城の支城として、島原湾に面した岬に築いた平山城で、別名「日暮城」。
有馬氏の後に島原に入ってきた松倉重政によって廃城となったこの城に、島原の乱の際、3万7000人もの領民が立て篭もりました。
領民は、松倉重昌、勝家の父子2代に渡って限界を超える過酷な税の搾取を受け、このことが蜂起の発端となりました。当初、宗教色はなかったものの、一揆が形成される中、天草四郎のような象徴が作り出されていきます。
ここまで追いつめられれば、魚でも陸を駆けるのではないか。島原ノ乱の本質は、宗教一揆ではなかった。このことは、乱のあと幕府が松倉の政治を調べたときあきらかになったはずで、であればこそ勝家は打ち首になった。「島原ノ乱は、切支丹一揆である」とするほうが、むろん幕府には都合がよかった。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)
二の丸と本丸の間にある空堀跡から本丸方向をを臨む。
島原の乱後、石垣は破壊され、埋め立てられました。
池尻口門跡を入ると、正面に「天草四朗時貞の墓碑」があります。
本丸跡には、十字架のモニュメントや天草四郎像などがあります。
原城跡碑には、次のように刻まれています。
徳川幕府のキリスト教徒弾圧。同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四朗時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の巷と化した。・・・何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。この戦乱は、当時の国政の上に痛烈な警鐘となり人間の信仰の尊さを内外に喧伝した。本丸跡から二の丸跡・三の丸跡を臨む。
本丸虎口跡には、格式ある櫓門があったとされています。
田町御門跡
田町門跡辺りから望む本丸跡。城が断崖を背にした要害に築かれていることがよくわかります。
●板倉内膳正重昌の碑
三の丸跡に板倉内膳正重昌の碑があります。
板倉重昌は、島原の乱の幕府総司令官として徳川家光の命で派遣され、総攻撃の先頭に立ちますが失敗し、自身も戦死します。
石碑には、辞世が刻まれていました。
新玉の年にまかせて咲く花の 名のみ残らば魁と知れ 島原街道をさらに南へ進みます。