司馬遼太郎の『街道をゆく 肥前の諸街道』を逆走するように、呼子から唐津の城下町にやってきました。
●唐津城
唐津城は、肥前唐津藩初代藩主・寺沢広高が、名護屋城の解体資材を用いて、唐津湾に突き出た満島山に築いた連郭式の平山城で、北を玄界灘、東南を松浦川と町田川に囲まれ、西を城下町に守られています。
訪れた時は、石垣の修復工事が行われていました。
唐津城に天守台はありますが、天守があったという記録はないそうです。
この5層5階の天守は模擬天守・・・なのですが、天守最上階の回廊からの「虹の松原」の眺めが美しいと聞き、登城。
天守東の方角から「虹の松原」が一望できます。青い海、白い砂浜、緑の松原のコントラストがとても綺麗。
この虹の松原は、寺沢広高が、唐津城を築城する際に、防風林として、黒松100万本を2里(8キロ)に渡って植えて作りました。当初は「二里ノ松原」と呼ばれていましたが、「虹ノ松原」と呼ばれるようになったことについて、司馬遼太郎は、次のように書いています。
唐津藩は、藩主の交代が頻繁なために武家文化が成熟しにくく、さらには地元が豊かなために、 町人や富農層が唐津文化を熟させてゆくという面がつよかった。こういうしゃれた言い方は、漢語でこりかたまった藩士層からは、出にくいように思える。・・・
唐津では無駄や無用のことこそ文化だという機微が共有のものになっている・・・
もし旧佐賀藩領に「二里ノ松原」があれば虹ノ松原などという発想はだれもがもたなかったにちがいない。
この松原は、海と浜と岬の美しさとかかわりつつみごとなものである。なによりもすぐれているのが名称といっていい。(司馬遼太郎『街道をゆく 肥前の諸街道』より)
視線を少し東南の方角に向けると、台形の鏡山を中心に、左側が虹の松原と唐津湾、右が松浦川というアングル。
東南の方角には、松浦川。
真北には、参拝すると宝くじが当たると噂される宝当神社のある高島。
北西方向には、玄界灘に浮かぶ島々が。左から、大島(左)鳥島(中央)高島(右)
城の西には、西の浜海水浴場や火力発電所など、唐津市内を一望。
西の浜の左側には、かつて二の丸、三の丸がありました。グランド辺りまでが二の丸で、その向こうが三の丸だったそうです。
唐津藩は、寺沢氏の改易後、藩主が何度も入れ替わりましたが、城下町は、西国交通の要所として繁栄。豊かな町人文化が育まれ、「唐津くんち」という豪勢な祭を生み出しました。 この日は、唐津の粋を今に伝える「唐津くんち」の真っ最中。我々も旧城下町を曳山が練り歩く様子を見物することにしました。