8月8日(土)つづき
上杉家の知将・直江兼続によって栽培が始まり、後に、上杉家10代(米沢藩主としては9代)の上杉鷹山によって奨励されたウコギ垣。そのウコギ垣の武家屋敷が今も残る芳泉町を訪ねました。
●ウコギ垣の武家屋敷
武家屋敷町というと、お城の近くにあるというイメージがありますが、芳泉町は、米沢市中心街から3キロ程南に離れた場所にあります。こんなにお城から離れたところに武家屋敷町が本当にあるのか、住所を間違えたのか・・・少し不安になりましたが、調べた通りの住所に、米沢藩の下級武士(原方衆)が暮らした武家屋敷が残されていました。
上杉家が会津120万石から米沢30万石に移封になった際、城下には家臣全員を収容しきれなかったため、多くの下級武士は、城下周辺の原野へ開拓入植することになったそうです。
芳泉町もその1つ。松川上流谷地河原護岸・水防の役割を担うことを主な任務として。米沢藩家老の直江兼続が町割りし、六十在家と言われました。
ウコギ垣が残る町並みは、松川扇状地の大石だらけ荒地を開墾し、農業をしながら質素倹約に努めた往時の武士の生活を偲ばせます。
●直江石堤
松川上流の谷地河原には、1km余に及んで築かれた「直江石堤」が残されています。草に隠れてわかりにくいけれど、この下は石垣になっています。
●蛇堤
直江石堤と六十在家の間に築かれた蛇堤と呼ばれる川除堤防(石垣堤)。
今も石堤の石積みの一部が、ところどころに残されています。
六十在家の町並みをよくよく見ると、ウコギ垣の下に石垣を築いていることに気が付きました。
六十在家自体も川除堤防そのものだったのかもしれません。