西南戦争の最後の戦いの場となった城山周辺を訪ねます。
●城山展望台
九州各地を転戦した薩摩軍が立て篭もった鹿児島城下の城山。展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。眼下に広がる錦江湾は、幕末に起こった薩英戦争の舞台となりました。イギリス艦隊の軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、軍政改革を進めました。
●西南戦争 薩摩軍本営跡
展望台の駐車場脇の階段を上ると、大正時代に正午の時報を伝えた大砲を設置したという「ドン広場」があります。
地図によると広場の西端に薩摩軍本営跡碑があるはずなのですが、見当たらない。
鬱蒼とした木々の間が僅かに開けた細い道を登っていくと
・・・お。石碑らしいものがありました。「明治十年戦役薩軍本営跡」と刻んであります。1万人以上を率いて鹿児島で挙兵してから7ヶ月。わずか300余りの兵とともに故郷に戻った薩摩軍は、鶴丸城下の城山に立て籠もり、政府軍の総攻撃を受けるまで、ここを本営としました。それにしても、もうちょっと何か案内があってもいいのに。知っている人が探しに探してやっと見つけられる・・・という感じでした。
●西郷隆盛洞窟資料館せごどん
城山展望台からつづら折りの車道を下ると、西郷隆盛の像が突如現れます。駐車場に車を停め、その脇にある洞窟に「目で見る西南戦争始末記 三十六景展示場」とあります。中に入ると、奥にガラスのショーケースを設置してあり、西南戦争の様子を描いた色紙を並べて展示しています。
ここは、土産物店が作った私設の資料館で、無料開放されています。西南戦争をざっくりとおさらいをするには、悪くないかも。
人吉の青井阿蘇神社で、戦勝を祈願し、剣舞と相撲を奉納する場面
人吉城下での銃撃戦の様子
政府軍による総攻撃の前夜、軍儀を開く洞窟内の様子
●西郷隆盛洞窟
資料館のすぐ下に、西南戦争最後の薩摩軍の司令部として使われたと伝えられる西郷隆盛洞窟跡と南洲翁洞中記念碑があります。
西郷や幹部は山頂の本営を降りると、政府軍の総攻撃直前までの5日間をここで過ごしました。
城山に立て篭る薩摩軍兵士は、わずか300余。これに対し何重もの柵を巡らして城山を包囲した政府軍は4万を数えたそうです。
城山総攻撃が始まり、薩摩軍の陣地が攻め落とされると、西郷らはこの洞窟を出て岩崎谷に進みました。
●西郷隆盛終焉の地
城山の洞窟を出て僅か300m程の岩崎谷の出口近くにさしかかった時、腰と太腿に2発の銃弾を受けた西郷は、別府晋介の介錯によって、波乱に富んだ50年の生涯を終えます。実際の場所は、終焉の地碑が立つこの場所よりも西側になるそうです。西郷の死体が発見された時、政府軍を指揮した山県有朋は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷をしたそうです。
●薩摩義士碑
城山の麓に、江戸中期に木曽川、揖斐川、長良川の治水工事で犠牲になった薩摩藩士を祀う薩摩義士碑があります。薩摩藩の弱体化を狙う幕府によって短期間での完成を命じられた難工事は、多くの犠牲者を出し、工事を担当した平田靱負は、責任を取って切腹。平田靱負の碑を中心として犠牲者85基が将棋の駒を縦に並べたような集合碑となっています。理不尽な幕命による治水事件が、幕末の薩摩藩による討幕運動への1つの伏線になったかもしれません。(だからといって、会津藩への酷い仕打ちが許される訳でもなく・・・ぶつぶつぶつ)
桑名では、犠牲者が手厚く葬られていています。
●私学校跡
政争に敗れて下野した西郷隆盛は、自分を慕う鹿児島の士族たちのために、県令・大山綱良の協力を得て、鶴丸城の厩跡に、私学校を創設しました。門の横に、「西郷南洲設立私学校跡」の石碑が建っています。
私学校は年々強大化し、反政府の機運を高まらせ、過激派生徒が暴走。政府が管理している火薬庫を襲撃します。これとを聞いた西郷は「おはんら何たることをしでかしたか」と一言漏らしたと伝えられています。
私学校跡の石垣には、西南戦争の時に政府軍が打ち込んだ残る弾痕の数が無数に残り、政府軍との銃撃戦の激しさを今に伝えています。
私学校は西南戦争で焼失し、設立から4年で廃校となりました。現在、跡地は、国立病院機構鹿児島県医療センターとなっています。
私学校から道を隔てた南側は、薩摩77万石を支配した島津氏の居城・鶴丸城があります。
続いては、島津氏ゆかりの地を訪ねます。