鎌倉時代から明治にいたるまで、薩摩を支配した島津氏ゆかりの地を訪ねました。
●鶴丸城
鶴丸城は、薩摩77万石の島津氏の居城で、関ヶ原合戦後の1602(慶長7)年に島津家久が、背後の城山を後詰とする根小屋形式の館城として築城しました。「
鶴丸城」の名前は、戦国時代に島津一族分家であった伊作島津家の「
亀丸城」に対する雅称。
天守も重層櫓もない簡素な城で「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城されました。
鶴丸城は、江戸期を通じて島津77万石の本城として栄え、明治維新後、熊本鎮台の分営が置かれましたが、1873年(明治6年に)本丸が焼失。4年後の西南戦争で二の丸も焼け、現在、城跡には、石垣と水濠、本丸大手前の石橋が残っています。
●照国神社
鶴丸城の二の丸跡には、幕末の名君として名高い薩摩藩11 代藩主・島津斉彬を祀る照国神社があります。
●探勝園跡
照国神社に隣接して、鶴丸城二の丸庭園であった探勝園跡があります。積極的に西洋の科学技術の導入に努めた斉彬が、この場所で、日本で最初の電信実験を行いました。
探勝園跡には、島津三銅像があります。
●島津斉彬
薩摩藩11代藩主・島津斉彬は、今後の時代を見据え、「富国強兵」「殖産興業」という理念のもと積極的に西洋文明を取り入れ、藩政改革と軍備の近代化を断行。斉彬の進んだ考え方は、西郷隆盛、大久保利通をはじめとする、近代国家の担い手となる人材を育てました。
●島津忠義
薩摩藩12代藩主・島津忠義。祖父・斉彬の死後、父・久光の補佐を受け藩の政治を行いました。
●島津久光
斉彬の弟で、12代藩主・忠義の父の後見として、「国父」の尊称を受け、藩政の実権を握りました。明治維新後、家臣だった西郷と大久保が主導で発令した廃藩置県に激怒し、邸宅で夜通し抗議の花火を打ち続けた逸話は有名。
●医学院跡・藩校造士館跡・武道場「演武館」
鶴丸城前の現在中央公園となっている広い敷地には、江戸後期に、斉彬の曽祖父で薩摩藩8代藩主・島津重豪が、優秀な人材を育成しようと、藩校「造士館」、武芸稽古場「演武館」を創設しました。
斉彬は、曽祖父・重豪が創設した藩校・造士館の改革に乗り出し、西洋の実学を取り入れました。
重豪は、医学にも関心があり、医学を研究する医学院を造士館の北隣に設立。
この他、天体観測の器具を備えた天文学を研究する施設「明時館(天文館)」を作りました。跡地には「天文館」という地名が残り、鹿児島を代表する繁華街となっています。
●仙厳園(磯庭園)
鶴丸城の別邸として造られた島津家代々の邸宅が「仙厳園(磯庭園)」です。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てたスケールの大きい借景庭園で、幕末から明治にかけて、薩摩の迎賓館としての役割も担いました。
廃藩置県が発令した日の夜、久光は、この磯庭園から船を出し、夜通し花火を打ち上げさせました。この場所に花火が上がったら、さぞかし見事な眺めでしょう。なんともお殿様らしい、スケールの大きい鬱憤の晴らし方・・・ですね。
この磯庭園は、斉彬の研究の集積地となりました。敷地内には、ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場など、西洋技術を習得するための西洋式工場群「集成館」を建設し、様々な事業を興しました。尚古集成館には、斉彬の研究成果や島津家ゆかりの資料を展示しています。
こちらは、復元された150ポンド砲。
その大砲を作るために造られた反射炉跡。
司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』の中では、長崎の海軍伝習所で西洋医学を学んだ軍医で主人公の松本良順が、海軍の練習船「咸臨丸」の練習航海中に、勝海舟らとともに磯庭園を訪れ、斉彬の案内で反射炉や軍艦を見て、軍備の近代化が進んだ薩摩藩に実態に驚く場面が描かれています。
●猫神社
庭園の片隅に、猫神様を祀る猫神社があります。
こちらには、朝鮮出兵の際に、島津氏が、時計代わりに連れて行った猫を祀ってあるそうです。猫が時計?説明版によりますと、当時、猫の目の瞳孔の開き具合によって時刻を推察したのだとか。猫は手厚く祭られ、毎年「時の記念日」には「愛猫供養祭」を執り行っているそうです。鹿児島旅行中、多くの猫を見かけましたが、大らかで人懐っこい子が多かったのは、猫を大事にするお土地柄だからなのかな・・・だなんて、思ってしまいました。