最終日に、再び人吉へ。2日前(5月4日)に訪れた際は、お城祭りの真っ只中で、城をゆっくり見学できなかったのが心残りだったのです。
●人吉城
人吉城は、琢磨川と胸川が合流する小高い山に築いた本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城で、背後の山には、空堀や堀切で守られた中世の山城(原城、上原城、西の丸)があり、これらの遺構を総構えとした大規模な城郭となっています。
まずは、隣接する
人吉城歴史館へ。ここで城の縄張図や、西南戦争の人吉戦跡図などの資料を入手しましょう。館内では、鎌倉時代から幕末まで人吉を700年に渡って人吉を支配した相良氏ゆかりの資料、地下の遺構、城のジオラマ模型などを展示。城歩きの前に見ておきたい。
●大手門(胸川御門)跡
人吉市役所西側の胸川に面している部分に、かつて大手門がありました。胸川に架かる大手門前の橋が唯一城への入口でした。
●多聞櫓
大手門脇には、多聞櫓とそれに続く長塀と隅櫓が復元されています。
●水ノ手門跡
城から球磨川に向かって開かれた水の手門跡があります。門外にあった舟着場は年貢米の搬入などに使われました。
櫓門の、高い石垣が残っています。
●掘合門
水ノ手門を入ると、城主の相良氏が暮らした御館の北側入口に置かれた堀合門が復元されています。本物は、江戸時代末期の「寅助火事」でも焼け残り、廃藩置県後、城内の建物を取り壊す際に、
新宮家に移築されました。新宮家は、西南戦争の際、西郷隆盛が宿舎とした場所であったことは、
こちらで紹介した通り。戦火を焼失を免れたホンモノの堀合門は、今も新宮家屋敷の玄関にたっています。
●武者返しの石垣(はねだし石垣)
堀合門脇の石垣は、武者返しの石垣となっています。
かつては、石垣の上に長櫓がありましたが「寅助火事」で消失。防火のために、西洋の築城技術である「棉出(はねだし)工法」で、石垣が組み直されました。
●御下門跡
本丸、二の丸、三の丸への唯一の登城口に置かれた門です。
三ノ丸の北側下に位置し、巨大な石垣によって構成された櫓門でした。
●三の丸
西南戦争の際、薩摩軍がここに砲台を配備し、琢磨川向こうに陣取った政府軍と戦いました。
水ノ手橋の袂の背後の高台が、政府軍が砲台を築いた村山台地。
●中御門跡
三の丸から二の丸に入る正門が中御門。
周囲は石垣で固められ、枡形虎口と埋門形式の2つの虎口が開かれています。
●二の丸跡
人吉城の主郭とも言えるのが二の丸。
三の丸から見上げた二の丸
現在地の赤い印にいます。西南戦争の際、薩摩軍がここに砲台を置いたという説と、ここから北側を見下ろした
三の丸に置いたという説があります。このあたりから、琢磨川の対岸にいる政府軍に向けて砲弾を放ったのですね。
村山台地の官軍砲台跡から見た人吉城。
琢磨川を南北に挟んで、戦いが行われました。
●しらいしうなぎ屋
この日のお昼は、人吉名物の鰻を。「上村うなぎ屋」「しらいしうなぎ屋」と2軒の老舗が並ぶ紺屋町へ向かい、さっと店内に入れた「しらいしうなぎ屋」で鰻丼をいただきました。