2日目 (8月14日) つづき
平泉に来ています。
平安時代に奥州を支配した奥州藤原氏を語る上で欠かせない人物が、源義経です。京都の鞍馬山を16歳で出た義経(牛若)は、藤原3代・秀衡庇護の下、平泉で6年の歳月を過ごします。兄・頼朝の挙兵に参戦し、平家追討で功を上げたものの、これを喜ばない兄から追われる身となり、再び秀衡を頼って平泉に戻ります。しかし、秀衡の死後、息子の泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込み、その泰衡も義経を匿ったことを理由に、頼朝の攻撃を受け、栄華を誇った藤原氏は4代で滅亡するのです。
●義経堂
源義経最期の地として伝えられるのは、
中尊寺東にの丘陵地・高館です。判官となった義経の居館があったことから、判官館とも呼ばれています。後に伊達家が建てた
義経堂には、甲冑姿の義経像が納められています。
高館の丘からは、西に遠く奥州山脈、東に束稲山、眼下には北上川と、衣川の古戦場跡が一望できます。
義経が高館で自害した500年後の1689年に 「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、義経最期の地であり、奥州藤原氏盛衰の地である、ここ高館を訪ねています。高館からの風景を見た芭蕉は「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の詩『春望』を思い出し、人の世の運命と無常感に思いを寄せた、かの有名な句を詠んでいます。
夏草や 兵どもが 夢の跡
●無量光院跡
無量光院は平安時代末期に奥州藤原氏・3代秀衡が建立した寺院です。
鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』に、「宇治の平等院鳳凰堂を模して建立した」と記録されています。CGで再現すると・・・
周囲に土塁を巡らせ、仏堂と広い苑地を設けた浄土庭園だったようです。
奥州藤原氏滅亡後、境内は荒廃し、現在では、堂跡、池跡、中島、礎石などの遺構が残っているのみ。現在も、発掘調査が続けられています。
夢と消えた平泉を象徴するこの場所から、今も変わらず、金鶏山が見えます。
司馬遼太郎の『義経』では、金鶏山の麓の松林で、義経と秀衡が初めて出会い、
毛越寺へと歩む場面が描かれています。午後からは、その毛越寺を訪ねることにします。その前に、少し早い昼食といたしましょう。