2月26日(土)
白と黒のコントラストが美しい長塀と坪井川が作り出す水辺の風景は、「土木の神様」とも称された、加藤清正によって作られました。
清正が肥後に入国した当初、現在の熊本市役所前あたりで、大きく蛇行した白川と、坪井川と合流していて、しばしば氾濫を起していました。清正は、治水と同時に、城の防衛、城下町の拡張という目的のために、2つの川の改修にあたりました。まず、白川の蛇行部分を堰き止めて直線化し、城の外濠としての防御機能を持たせることにしました。
●長六橋
城の外濠となった白川には、城郭の南端から約600mの地点に、城下と城内を結ぶ「長六橋」を架橋しました。
西南戦争の際、籠城戦に耐え凌ぐ熊本鎮台司令長官・谷干城たちを助けるため、川尻から熊本へ驀進した山川浩中佐は、籠城中の兵たちに自分たちが政府軍であることを示すために、この長六橋で兵士を整列させ、先頭に喇叭音を高らかに響かせながら、城内に入り、城を薩軍の包囲から解いたと伝えられています。
●船場
加藤清正は、白川の改修工事と同時に、白川と切り離した坪井川の流れを人工的に変え、城下町と有明海とを結ぶ物資の運搬路に作り上げました。
大正時代まで水運の拠点となった船着場があった場所には、今も『船場』という町名が残っています。
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場さ
歌に登場する船場は、ここのこと。
船着場があった場所は、清正以前の中世の城郭・古城(隈本城)の大手門のすぐ近く。
清正は、城の中心部を、茶臼山中心部の東に移し、古城については、熊本城の弱点である西を守る出丸としました。
西南戦争の熊本城攻防戦の際は、薩摩軍から激しい砲撃を受ける、激戦地となりました。
●古城跡古城跡には、その後、第五高等中学校(現在の熊本大学)が置かれ、現在は、熊本県立第一高等学校が建っています。
高校の正門前、敷地の西側の公園などに、当時を偲ばせる石垣や堀が残っています。
案内板によりますと、熊本市が、熊本城の復元整備の一環として、この古城の堀まで整備しようとしていることがわかりました。「本来の姿への復元」との言葉に、城に対する熊本人の気構えの違いを感じました。
+++ マンホールチェック ++++
旅先の密かな楽しみの一つがマンホールチェック。熊本市内で見かけたマンホールは、熊本市の花「肥後椿」の花をモチーフにしていました。
こちらは、カラーヴァージョン。真紅の椿、華やかです。