2009年9月のSWから始まった現存12天守めぐり。
松山城、
宇和島城、
彦根城、
犬山城、
丸亀城、
高知城、
姫路城、
弘前城、
松江城、
備中松山城に続いて、今回、18きっぷを利用した日帰り旅で、福井の丸岡城(別名・霞ヶ城)を訪ねてきました。
丸岡城は、柴田勝家の甥の勝豊が北ノ庄城の支城として1576年に築城した平山城。廃藩置県後も天守の解体は免れましたが、1948年の福井地震で倒壊、7年後に修復されました。
野面積みで組んだ石垣の上に立つ天守は、2層3階の下見板張り、望楼型。太い出格子、板壁、物見窓 など初期の天守の特徴を残していて、小さいながらも質朴で古武士のような佇まい。姿がいい。
石垣もいい。天守台の石垣の高さは6m。野面積みならではの風格と味わいがあります。
天守をぐるっと四方から眺めてみましょう。まずは、北側の平章小学校の運動場前から。
そして東北側から。パンフレットなどの写真は、みなこちら側から撮影。
天守正面の東側から天守入口を見上げて。
東南から。野面積みの石垣込みのこの角度が私は好き。
続いて南側。石垣の雰囲気がいい感じで残っている。
そして西側。内堀沿いに藩の重臣の屋敷が並んだ西三の丸跡から。
かつての内堀は、埋められて、道路となり、西三の丸跡を標す石碑脇には、福井駅へ向かう京福バスのバス停があります。
丸岡城は天守が残るだけで、内堀も外堀も埋められているので、すぐに1周できます。見る角度によって、雰囲気が異なり、見応えあります。続いて、天守内部を見学することに。
天守正面の階段の脇にあるのが、1948年の福井地震で落下した石の鯱。
靴を脱いでスリッパに履き替え、ロープを伝って急な階段を上り2階へ。
窓から屋根を見下ろすと、屋根は瓦状に刻んだ石を用いた石葺きであることがわかります。福井市内で採れる笏谷石を使っているそうです。
入母屋の懸魚を裏側から。懸魚は三つ花型。
薄い板壁が渋く黒ずみ、天守台との境には、内部に雨水が入らないように腰庇が設置。
梁と柱が縦横にめぐらされた堅牢な構造で、天井はなく、天守3階の最上階にはぐるりと廻縁を設けてあります。
天守3階からの眺め。南側は、寺町があった場所。
西側は、福井平野。丸岡市街が広がります。
北側に見えるのは、丸岡城の撮影ポイントの平章小学校。
東側には、加越山地の山々が連なっているのが見えるはず・・・。
丸岡城には数々の伝説があり、城内にはそれを今に伝える史跡があります。
●人柱お静の慰霊碑
城の石垣が崩れるから、人柱を立てた・・・というのは、前にもどこかで聞いたような気がします。丸岡城では、2人の子を抱えた「お静」が息子を武士に取り立ててもらう約束で人柱となりました。しかし、約束は反故にされ、その後、お静が人柱に立った卯月になると長雨が続いたため、人々が『お静の涙雨』と呼び、お静の霊を慰めるため、小さな祠とt慰霊碑を建てたそうです。
●雲の井の井戸
本丸への南側虎口跡に霞ヶ城の由来となった雲の井の井戸があります。雲の井には丸岡城に危機が迫る度に、ここから大蛇が現れて城に「霞」をかけて、危機を救ったという伝説が残されています。天守が築かれたこの「まるこの丘」は、継体天皇の皇子・椀子(まるこ)王を葬ったとされる場所で、その大蛇は椀子王の化身であるとの伝説も。
●一筆啓上 書簡碑
徳川家康譜代の功臣・本多重次が陣中から妻に宛てて送った手紙を刻んだ石碑が天守東北角に建っています。
一筆啓上 火の用心
お仙泣かすな 馬肥やせ
文中の「お仙」は、嫡男・仙千代で、後に丸岡城6代城主となった本多成重です。
この日のお昼は、城の脇にある「一筆啓上茶屋」でいただくことに。
●一筆啓上茶屋
丘麓の茶屋で昼食を。丸岡産の蕎麦粉を使った手打ち蕎麦と福井県人定食。
県人定食は、名物の越前おろし蕎麦とソースカツ丼がセットになっています。
「丸岡産の蕎麦粉だけを使った手打ち蕎麦」と店のおばちゃんが自慢するだけあって、蕎麦の風味がしっかりしたお蕎麦。ここの素朴な風合いもそれはそれでいいのだけれど、蕎麦専門店で、丸岡産の蕎麦を改めて食べてみたくなりました。
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旅のお楽しみが、マンホール探し。丸岡城下では、こんなデザインのマンホールが。
描かれているのは、旧坂井郡丸岡町の町花「ハナショウブ」。旧丸岡町は、市町村合併で、2006年3月に坂井市となったそうです。