4日目 つづき
太宰治の『津軽』と出会うきっかけとなったのは、司馬遼太郎が『街道をゆく 北のまほろば』の中で、太宰の『津軽』を何度も引用していた上、以下のように評していたからです。
津軽への愛が、ときに含羞になり、自虐になりつつも、作品そのものを津軽という生命に仕上げていて、どの断片を切り取っても、津軽の皮膚や細胞ではないものはなく、明治以降の散文の名作・・・うまいこと書きますね。
太宰は故郷の「けかち(飢餓)」な歴史を嘆いていますが、司馬は、豊かさを形容する「まほろば」という表現を使い、「先史時代、このあたりは"北のまほろば"というべき地だったのではないか」との思いを青森の縄文遺跡を訪ね歩く中で深めています。
◆三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は、今からから5500年前~4000年前の縄文時代前期から中期にかけての集落跡で、これまでの発掘調査で、この地で長期渡る定住生活が営まれていたこと、当時の集落の様子や自然環境などがわかっています。
多数の竪穴式住居の周りには食糧倉庫と思われる高床式の建物が数十棟あり、共有の倉庫の跡、ゴミ捨て場、共同墓地、植林した栗林などが見つかっています。
住居群から谷を隔てた向こう側には、共同墓地が。
約1000年間の生活の廃棄物が堆積した盛土遺構の断面も見られます。
集会所や冬の間の共同家屋として使われたと思われる長さ32m幅10mの大型竪穴住居跡のそばには、栗の巨木の柱跡が6箇所発見され、その位置や深さ、残っている柱材から、楼閣跡ではないかと推測されています。右下の遺跡を発見し、復元したのが左下の写真。「
地下には真実、地上にはロマン」とボランティアガイドさん。なるほど!真実に基づいた復元だけど、そこにはロマンがある、それが考古学の魅力なのかな。
出土品の中に、紐通しの穴が綺麗に貫通した翡翠があります。翡翠は越後の糸魚川から運ばれたもので、縄文人の技術力と行動力を窺い知ることが出来ます。司馬は『街道をゆく 北のまほろば』の中で三内丸山遺跡を「翡翠の好み」という章で紹介。大きな塔が聳える集落があった縄文期に想いをめぐらせています。
ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのにちがいない。
人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が―この翡翠をくびからぶらさげて―待っていたであろうことを想像した縄文人の技術力は、遺跡内にある「さんまるミュージアム」で見ることができます。
発掘された縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、漆器などの出土品から、彼らが栗や豆などの植物を栽培し、タイなどの魚を食べ、布や漆器を作ていたことがわかります。5000年前にこれだけ文化的な生活がなされていたことに驚きました。
縄文遺跡についてしっかり学習した私たち。時間はあるし、せっかくレンタカーも借りたことだし・・・と、縄文後期・晩期の遺跡で、遮光器土偶が発掘された亀ヶ岡石器時代遺跡を訪ねてみることにしました。
●亀ヶ岡石器時代遺跡
のびやかに広がる津軽平野の田園地帯を走っていると、唐突に巨大なモニュメントが現れました。慌てて車をバックして停めます。ここ亀ヶ岡は古くから甕が出土したところから甕ヶ岡と呼ばれ、いつの頃からか甕の字が亀に変わったとのだそうです。
亀ヶ岡遺跡には、ご覧のような、大きなモニュメントが建っていますが、三内丸山のような復元施設はもちろん、解説の立て札1つなく、他にはログハウス風の立派なトイレがあるだけ。
・・・周囲は草ボウボウ。当時のことを思い浮かべようにも、素人の想像力では太刀打ち出来ない。三内丸山遺跡から高速飛ばして車で1時間かけてやってきた私たち、すっかり途方に暮れてしまいました。
ここに来る途中に「縄文館」という考古学資料館への道路案内があったことを思い出し、そこを訪ねることにしました。
●考古学資料館「縄文館」
畑の中の狭い道路を通り抜け、鬱蒼とした林の中をくねくね走り、目の前けたところに、ひっそりと考古学資料館「縄文館」がありました。建物に入ってすぐ左手が展示室。ガラスケースに、亀ヶ岡遺跡から出土した1000点余りの土器や石器を展示してあります。無造作に展示してあるだけなんですが、手渡された資料やその展示内容が、非常に充実していることに、驚かされました。
展示室には、籠に赤漆を塗りつけて作った藍胎漆器、赤い顔料で色付けした漆塗彩色土器、漆が着色した漆こし布など貴重な資料が、たくさん。3000年前の優れた造形技術やその芸術性を知ることができます。
発色が良く、漆の製法技術を縄文人がすでに会得していることを証明。
首のない遮光器土偶もあれば、写実的な土偶もあり、耳飾やネックレスに使用されたと思われる玉 土偶も見つかる緑や白色の石などが見つかり、身なりに気を配っていたことが推測されます。
三内丸山遺跡と亀ヶ岡遺跡を続けて見たので、縄文中期と後期の土器の違いも良くわかり、わざわざ訪ねて来た甲斐がありました。大満足。ここで出土された遮光器土偶のことをもう少し知りたくて、木造の考古学資料館へも足を運ぶことにしました。
●つがる市縄文住居展示資料館・カルコ
カルコという名前は、
Kamegaoka
Archaeology
Collecthions
の頭文字を取ったネーミングなのだとか。アカデミックでありながら親しみやすい、素敵な名前ですね。ここでは、亀ヶ岡遺跡からの出土品約1000点を展示しています。
亀ヶ岡遺跡を代表する出土品がこちら「遮光器土偶」。デフォルメされた目が古代北方系民族が使用していた遮光器(サングラス)に似ていることから、この名がつけられました。国の指定重要文化財に指定され、実物は文化庁が所有しているため、カルコでは拡大したレプリカを展示しています。
2階の展示室には、縄文初期から後期にかけての変遷や、江戸時代の発掘の様子などがわかりやすく展示してあります。
装飾された土器の花や葉を抽象したような模様などから、縄文人の美に対する探究心がうかがえます。津軽の縄文遺跡や資料館を訪ね歩いて、津軽が今から5000年以上も前から栄え、なおかつ高い文化を持っていたことがよくわかりました。司馬遼太郎は、この豊かさを「まほろば」と表現したのですね。