8月29日(土) つづき
都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
平安貴族の詩心は、陸奥に多くの歌枕を作りました。「白河の関」は、古代の律令国家が陸奥への玄関口に設置した関所で、陸奥に憧れた都人たちが歌に詠み、歌枕としてその名が広く知られました。辺境の歌枕の地への憧れが、能因法師、西行、松尾芭蕉と、時代時代の風流人を旅に誘い、戸惑わせました。関の砦としての役割は9世紀頃に失われ、時代が下ると、その場所すら判らなくなっていたからです。
司馬遼太郎は『街道をゆく 白河・会津の道』の中で「厄介なことがある。名だたる白河の関の跡が二ヶ所あって、そのうちのどちらがそうであるか、わかりにくのである」と書いています。芭蕉や司馬遼太郎が訪ねた順に、その2つの場所を訪ねてみることにしました。
●境の明神
旧奥州街道、現在の国道294号沿いの下野藩(関東側)と白河藩(奥州側)の藩境の白坂峠に「境の明神」があります。江戸時代、陸奥への玄関口となったこの場所が、古代の「白河の関」の跡だと思われていました。芭蕉もこの峠を越え、陸奥の国への第1歩を踏んでいます。
かつての藩境は、現在、栃木県と福島県の県境となっています。
福島側から 栃木側から
藩境(現在の県境)を挟んで2つの神社が建っています。下野側が玉津島神社(女神、衣通姫)、白河側が住吉神社(男神、中筒男命)。古くから、国の境には、男女一対の明神を祀る習慣があり、玉津島明神と住吉明神は、ともに国境の神様で、「内(国)を守る」女神と「外(外敵)を防ぐ」男神という組み合わせになっています。
玉津島神社 住吉神社
白河二所ノ関址
玉津島明神と住吉明神が対になってるので、境の明神は、古くから「二所の関」ともよばれています。「白河二所ノ関址」碑は、この二所の関にこそ、白河の古関も置かれていたと、司馬遼太郎の言葉を借りると「はげしく説き続けた」元東京学芸大学名誉教授の岩田孝三氏が、江戸時代よりの関守の家である石井浩然氏と共に建てた石碑です。
「二所ノ関」と聞くと、相撲部屋を思い浮かべますが、盛岡藩南部候のお抱え力士にこの関に由来するしこ名の力士がいて、それが部屋の名になったようです。
旧奥州街道沿いの高台の木々に埋もれるように、「従是北白河領」という石柱がひっとりと建っています。戊辰戦争の際、白河小峰城を占領した会津藩兵が、藩境を標すこの石柱を押し倒し「従是北会津領」との木柱を建てたという話が残っています。旧奥州街道の東北への玄関口だった白河は、戊辰戦争の激戦地となりました。会津軍は、ここから北へ6km先の稲荷山に陣を敷いて新政府軍を迎え撃ったのでした。(稲荷山の話はまた後日)
境の明神を歌枕の白河の関だと思って訪れた芭蕉は、村人に「真の関址は、2里(8km)東の旗宿にある」と教えられ、古関があったとされる神社を訪れます。
●白河の関
白河神社は、古代の東山道の道筋だったという県道76号沿いにあります。神社の狛犬の隣に、「史跡 白河関跡」の石標が建っています。
この旗宿の白河神社を古い「白河の関」のあった場所だと断定したのは、寛政の改革で有名な白河藩主・松平定信です。
定信は、史実を調べ、様々な観点から、この地が古代の白河関跡と結論付け、1800年(寛政12年)に、その証として古関蹟碑を建てました。
鳥居のすぐ右脇に、定信が建立した古関蹟碑が、今も残っています。
杉木立に囲まれた参道の奥にある本殿の前には、奉納相撲の土俵がありました。案内板に「現在国技である大相撲二所の関部屋の発祥地、8月に二所の関古式相撲が嵐祭りとして奉納される」とあります。古い「白河の関」の跡だけでなく、相撲の二所の関部屋のゆかりの地としても、境の明神説と、白河神社説があるのですね。
その後の発掘調査(1959-63年)によって、本殿の右裏から、古代から中世に作られた土塁、空壕の遺構が見つかり、空壕に囲まれた鍛冶場跡、住居跡からは、関の存在をうかがわせる文字が墨書された土器も発見されました。これによって、ここが古代の関跡であるとして、1966年に国指定の史跡となりました。定信の考証が正しかったことが、証明されたといえましょう。
鬱蒼とした木立の中には、色々な歌碑が点在しています。本殿の左手にある古歌碑には、白河の関を詠った有名な3つの歌が刻まれています。
便りあらば いかで都へつけやらむ
今日白河の関はこえぬと
・・平兼盛が奥州への下向に際し、白河の関を越える時に詠んだ歌。
都をば 霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関
・・白河の関を広めた、能因法師の歌。
秋風に 草木の露を払はせて
君が越ゆれば関守もなし
・・源頼朝が奥州攻めの為この関を越えた時に、梶原景季が詠んだ歌。「いやはや、ご威光でございますなあと、たいこ持ちのような歌である」と司馬遼太郎は『街道を行く 白河 会津のみち』の中で書いています。
遊歩道に建つ「奥の細道文学碑」には、「奥の細道」の白河の関の段が、詩人・加藤楸邨の書で刻んであります。
心許なき日かず重るまゝに
白川の関にかゝりて 旅心定りぬ
いかで都へと 便求しも断也
中にも此関は 三関の一にして
風騒の人心をとゞむ 秋風を耳に残し
紅葉を俤にして 青葉の梢、
猶あはれ也 卯の花の白妙に
茨の花の咲そひて 雪にもこゆる心地ぞするこの短い一節の中に、芭蕉は、白河の関を歌枕にした名歌を織り込んでいます。
いかで都へとは平兼盛、
秋風を耳に残しは能因法師、
紅葉を俤には源頼政
の歌を指しているそうです。
敷地内を歩いていると、いたるところに、歌碑や句碑があります。
写真右は、本殿右脇に建つ後鳥羽院の歌碑「雪にしく袖に夢路もたえぬへしまたしら川の関のあらしに」。写真左は、川柳碑。「関所から京へ昔の三千里」「白河を名どころにして関の跡」 とあります。
敷地内にある古木には、それぞれ伝説があるようで・・・。
鎌倉初期の歌人藤原家隆が自ら手植えして奉納したものと云われている樹齢800年の「従二位の杉」
義経が戦勝を占うために矢を射立てたという「矢立の松」、旗を立てたという「旗立の桜」。
義経に息子の継信・忠信兄弟を従わせた佐藤庄司が「2人が忠義を尽くして戦うならば、この桜の杖は根付くだろう」と地面に突き刺した桜の杖が、本当に立派な桜の木になったという「庄司戻しの桜」などなど。
白河には、奥州藤原氏や源義経にまつわる伝説がたくさんあるのですね。
芭蕉が白河の関跡を訪れた頃、関とは名ばかりで跡形もなく、もちろん発掘もなんかされている訳もなく。それでも、芭蕉は、義経伝説の桜などを見ることは出来たようです。松平定信がこlこを白河の関跡と定めたのは、芭蕉の旅より100年以上も後のことでした。