両国橋東詰めから、本所界隈を歩いてみることにしました。
●元町
江戸幕府は、明暦の大火後、隅田川の東側の本所の開拓しました。本所で一番最初に開拓されたのが両国橋東詰めの元町です。両国橋から回向院に向う参道は賑わい、江戸前鮨の店もできたと案内板で紹介しています。
●回向院
回向院は、明暦の大火の犠牲者を葬るために、将軍家綱の命で建立された「万人塚」が始まりの浄土宗の寺院です。その後も災害の犠牲者や牢死者など多数の無縁仏がここに埋葬されました。
力塚
立派な門を入ると、力強い筆致で「力塚」と刻まれた巨大な石碑があります。寺社の修復費用を賄う目的で、深川の富岡八幡で始まった勧進相撲は、江戸の寛政年間になると、両国の回向院で行われるようになり、大名のお抱え力士たちが、藩の力と威信を誇示する場にもなりました。
鼠小僧の墓
境内には、時代劇でおなじみの鼠小僧次郎吉の墓もあります。
「どこにでもスルリと入り」「長年捕まらない」強運ぶりに肖ろうと、江戸時代から墓の石を削って持つ風習があり、今も受験や勝負事のお守りとして人気があるようです。
墓前には、「削り用」の石が用意してあって「こちらのお前立ちをお削りください」と案内が。この日も、ガリガリ削る学生さんや家族連れが何組もいらっしゃいました。
●河竹黙阿弥の終焉の地
ありふれた盗人だったとも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が、幕末から明示にかけて活躍した歌舞伎狂言作家・河竹黙阿弥です。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークし、それは、「江戸中の人気を独り占めしたような感じ」であったと、司馬遼太郎は『街道をゆく 本所深川 神田界隈』の中で書いています。
黙阿弥の住まいのあった本所亀沢の住居跡には、碑が建っています。
●芥川龍之介文学碑
本所の旧家で育った作家の芥川龍之介にとって、回向院のある本所界隈は馴染みのある場所で、鼠小僧を題材にした『鼠小僧次郎吉』という短編を残しています。龍之介が通った両国小学校(江東尋常小学校)には、龍之介の功績を讃える文学碑が建っています。
文学碑のすぐ裏側にある錆びた古い錨に、目がとまりました。
●駆逐艦「不知火」の錨
案内板に書かれた由来によりますと、なんとこの鉄の塊は、駆逐艦「不知火」の錨だったのです。「不知火」は、東郷平八郎元帥の「戦艦三笠」と共に、日露戦争の日本海海戦に参戦した駆逐艦。昭和初期に解体作業を請け負った旧岡田菊次郎商会が小学校に寄贈したのだそうです。こんなところで、日露戦争の史跡に出会えるとは思いませんでした。
●勝海舟生誕の地
両国小学校の東隣の両国公園の隅に、幕末の志士・勝海舟の生誕地碑があります。勝海舟は、幕末の激動期に、海国日本の基礎を築き、西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめ、江戸を戦禍から救いました。本所ゆかりの人物でもあったのですね。
●吉良邸跡・本所松坂町公園
両国公園近くには、赤穂浪士が討ち入った吉良上野介義央の屋敷跡もあります。敷地の一部が本所松坂町公園として整備されています。なまこ壁の塀に囲まれた小さな小さな公園に入ると、正面に「赤穂義士遺蹟・吉良邸跡」の石碑が。吉良邸内なのに「赤穂」が上なのが切ない。 国元の
吉良町が贈った「吉良上野介義央・追慕碑」があるように、地元では名君と慕われているのですが・・・。
吉良家の屋敷は、元々は、呉服橋御門内にあり、松之廊下刃傷事件後に、本所一ツ目に移されました。当時の本所は、開拓したばかりの江戸の郊外で、名門の吉良家がこの辺鄙な場所に移されたことは、様々な憶測を生みました。司馬遼太郎は『街道をゆく 本所深川 神田界隈』の中で、赤穂側の動きを察知した幕府側が、大手御門の近くで騒動が起こされたら困るからと、吉良邸を本所に遠ざけ、同時に討たれやすくしたのではないかと推察しています。
●本所割下水
その開拓したばかりの本所は、低湿地だったため、縦横に排水溝を掘って水はけを良くし、掘った土で湿地を埋め立てる必要がありました。その名残で現在も、碁盤の目のように道路が整備されています。下の古地図の青い部分は、「南割下水」と呼ばれた排水溝。両岸には、移転した大小の旗本屋敷が建ち並びました。
●弘前藩津軽越中守上屋敷跡
この中で一際、敷地面積の広さを誇るのが、弘前藩10万石の大名・津軽家の上屋敷です。
上屋敷跡の一部は緑町公園となっていて、公園の一画では、遺構の発掘作業が行われていました。
津軽藩の江戸屋敷は、本所一体に上・中・下と集中したため、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名に炭屋塩原」と人々に謳われ、今も落語のマクラで使われています。
●三遊亭円朝の旧居跡
「本所に過ぎたるもの・・・・」として、津軽10万石の大名と並び称された「炭屋塩原」の塩原太助を主人公にした人情噺『塩原多助一代記』を創作したのが、幕末から明治期に活躍した、初代三遊亭円朝です。
円朝は、一時期をこの南割下水近くに暮らしました。旗本下屋敷跡500坪もの邸宅の庭には、割下水から引いた水で池まで作ったというエピソードが、司馬遼太郎の『街道をゆく 本所深川 神田界隈』で紹介されています。
円朝は、本所時代に、本所界隈を舞台とした「怪談牡丹燈籠」「文七元結」の速記本を出版。どちらも、私が好きな落語のお話です。
●北斎通り
江戸時代に開削された堀の多くは姿を消し、南割下水も埋められました。南割下水で生まれた浮世絵師の葛飾北斎にちなんで、通りは「北斎通り」と名付けられ、街路灯には、北斎の浮世絵が展示してあります。
●葛飾北斎生誕の地
北斎の生誕地は、
東あられになっていて、店舗脇に説明板が建っていました。
江戸時代の本所は、掘割りが多く、夜は暗く寂しい場所だったことから、「都市伝説」的な奇談・怪談が次々と生まれました。この北斎通り(南割下水)を舞台にした怪奇話集は、落語「
本所七不思議」にもなり、今も語り継がれています。