8月19日(水)
新潟の旅を終え、新潟最後の夜を
満喫した私たちは、新潟港の
新日本海フェリーのフェリー乗り場に移動し、深夜23:30発のフェリーで秋田に向かいました。お盆の真っ只中でしたが、船は意外にすいていて、女性用の広々とした展望風呂は、ガラガラで、独占状態。汗を流し、シャンプーもして、ゆったり湯船に浸かったら、旅の疲れが癒され、朝までぐっすり眠れました。
8月19日(水)
船は定刻通り、早朝5:50に秋田港に到着します。私が乗ったフェリーは、苫小牧東港行きだったので、寝過ごして、秋田で降り損なったらどうしよう・・・と不安だったのですが、杞憂でした。目的地別に船室が分かれていて、しかも、係りの人が、下船時間が近づくとちゃんと起こしに来てくれました。
◆味利食堂
秋田観光の前にまずは腹ごしらえ。JR秋田駅近くにある
秋田市民市場へ向かいます。ここは市場なのですが、場内の飲食店の多くは、昼から営業で、早朝から食事が出来る店は限られています。我々は朝5時半から営業の「味利食堂」という、いわゆる飯屋で、朝食を。カウンターには、毎日数種類用意されるという日替わり定食(680円)の見本が並んでいて、人懐っこいおっちゃんが、あれやこれやと世話を焼いてくれます。選んだのは、身欠き鰊の定食。ほうれん草のお浸しが添えてあり、味噌汁には青さがたっぷり。こんなちょっとしたことが、旅先では嬉しい。ご馳走様でした。
◆川反通り
角館行きの列車までの空き時間を利用して、久保田城を囲む城下町を散策。こちらは、旭川の柳並木。 この川が、武家屋敷の内町と商人が住む外町の境界であるとともに、貴重な生活用水の供給源でもありました。川端の所々には、共同で管理する「川戸」「川道」と呼ばれる水汲み場がありました。
川向こうには、秋田の繁華街・川反通りがあり、秋田の町屋の特徴が見られる、旧金子家住宅(呉服問屋)、旧秋田銀行本店で本格的な洋風建築物として国重要文化財に指定されている
赤レンガ郷土館などがあります。
日除けの神様を祀る秋葉神社の境内には、ステンドグラスが施されたお堂にマリア観音が安置されていました。
◆千秋公園
千秋公園は、秋田市が久保田城址を佐竹家から譲り受けて整備した公園。お堀は、丁度ハスが見頃になっていました。公園内には、石垣や天守閣はありませんが、本丸の正門である表門(木造2階建て瓦葺きの櫓門)、御隅櫓が再建してあります。
◆佐竹資料館
千秋公園内にある佐竹資料館は、秋田藩の歴代藩主を務めた佐竹家ゆかりの資料館。ちょうど「藩祖義宣とその時代展」が開催中だったので、見学することに。
特別展では、秋田藩の初代藩主・佐竹義宣が藩の基礎を築きあげたその時代を、書状や甲冑、城内図、佐竹家の家系図などを展示しながら、わかりやすく紹介しています。
佐竹家のはじまり
佐竹氏は、鎌倉時代から続く名家で、戦国時代に常盤の国(茨城県)を統一します。
佐竹家と芦名家
戦国期の当主・佐竹義重は、会津の芦名家に次男義勝を養子に送り、伊達家と対抗。しかし、芦名家は、伊達家との戦いに敗れ、義勝は佐竹家に落ち延びます。その佐竹家も、関ヶ原の合戦で西軍寄りだったことを咎められ、義重の長男・義宣の代に、常盤54万石から秋田20万石へ国替えとなります。佐竹家に身を寄せていた義勝もこれに随行。義宣は、義勝に角館城1万6000石を与え、芦名家は佐竹家家臣として角館に入ります。
芦名家から佐竹北家
角館に移った芦名家は、次期当主が相次いで病死する不幸に見舞われます。義宣は、養子縁組などの救いの手を出さず、芦名家は断絶。義宣は、妹の子・義隣に佐竹北家を継がせて、角館3600石を与え、佐竹家が秋田全体を支配するようになります。
佐竹北家と京の文化
角館の領主となった義隣は、京の公家・高倉大納言永慶の次男。その子・義明も、京の公家の娘を妻に迎えるなど、佐竹北家は2代続いて京との深い関わりがあったことから、角館に京の雅な文化が広まりました。
特別展では、芦名家がお家存続問題で揺れる最中に、義宣が江戸から家臣に書き送った書状が、何通も紹介されていました。細かい指示が何度となくされていて、策略家といわれた義宣の人柄が垣間見れるような気がしました。
ほんの時間つぶしのつもりだったのですが、これから訪ねる角館の基礎知識も得られ、充実した時間を過ごすことが出来ました。角館へ移動します。