2日目
日差しが眩しい秋晴れの下。、「坂の上の雲」ゆかりの地を中心に松山を見て周ります。夏目漱石の小説「坊ちゃん」の中で「マッチ箱のようだ」と書かれた路面電車は今も健在。
市内電車・ループバス1Dayチケット(¥400)をフル活用して、松山を歩くことにしました。
◆松山城
最初に訪れたのは、松山城。
前回は天守閣が改修中だったのですが、今回は全景を見ることができました。
午前9時。櫓から鳴り響く登城太鼓を合図に、一の門の扉を観光客が押し開けて開門。
正岡子規が
松山や 秋より高き 天守閣 と詠んだ通りの佇まい。壁の白と黒のコントラストが青い空に映えて美しい。広い瓦屋根のどこに、私が4年前にメッセージを書いた瓦が使われているのかな。
天守閣からの眺望も素晴らしい。
こちらは、天守閣から、三津浜方面を見た風景。
◆坂の上の雲ミュージアム
松山城のある城山を下山して、
坂の上の雲ミュージアムへ。
この施設では、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公、秋山好古・真之兄弟、正岡子規を中心に、登場人物たちの魅力と、彼らが生きた近代国家へと歩み始めた明治という時代背景を、「坂の上の雲」の一節を引用しながら紹介しています。
城山の麓に佇む、ガラスの壁面に囲まれた三角形のミュージアムは、安藤忠雄の設計。ガラス越しに、城山の緑と青い空が広がり、三角形を描くように展示室を繋ぐ緩やかなスロープを上りながら、展示を楽しむという構造になっています。ひとつの目的に向かってスロープ(坂)を上って行く・・・というアプローチの仕方が、小説のテーマに合っていて、主人公達が生きた時代にすっと入り込みやすい空間になっています。
圧巻だったのが、階上へ行くスロープの壁面を埋め尽くした、新聞連載当時のスクラップ。全1296回に及ぶ新聞連載の全てが挿絵と共にパネル展示してあります。こういう形で作品を眺めると、司馬遼太郎が、40代のほとんどを費やして書き上げたという、そのエネルギーをひしと感じます。自分の好きなシーンが、いつ頃、どういう挿絵とともに掲載されたのか・・・そんな宝探しのような楽しみもあり、 ライブラリーのファイルで、改めてそれを確かめて・・・みたいなことをしていたらあっという間に2時間以上が過ぎてしまいました。「坂の上の雲」のファンにはたまらない施設でした。
◆道後公園
路面電車に乗って道後温泉方面へ。「道後公園前」で下車し、湯筑城址をぐるっと周って、秋山好古ゆかりの碑を探します。この公園には戦前まで秋山兄弟の銅像があったのですが、戦時中の供出によって取り壊され、銅像は、梅津寺に再建されました。
私が探していた石碑は、ブランコなどの遊具が並ぶ児童公園のすぐ脇にありました。
「祝御大典奉祝記念」とあります。揮毫は秋山好古によるもの。立派な字ですね。昭和天皇が即位されたことをお祝いして建立されたものだそうです。
◆秋山好古の墓
秋山好古の墓は、東京の青山墓地にありますが、秋山家先祖の墓のある道後温泉の鷺谷墓地にも、分骨が納められています。
秋山好古は、先祖の墓とは別に建てられ、その傍には、「永仰遺光」という石碑があります。これは、「永く仰ぎて光を遺す」という意味で、好古の思いや威光を後々まで伝えたいと言う有志によって、好古の3回忌に建てられたそうです。
◆伊佐爾波神社
道後温泉駅に戻る途中、東側の丘の上に伊佐爾波神社があります。道後温泉は伊予の石湯と言われ、古くから天皇の行幸があり、伊佐爾波(いさにわ)神社は、仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に行幸の際に、沙庭(さにわ)を立てた跡地に建てられた神社です。神社のある「射狭庭の岡」は、万葉集で、山部赤人が詠んだ長歌にもその地名が出てきます。
皇神祖の 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多にあれども
島山の 宣しき国と 凝々しかも
伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして
歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば
臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
遠き代に 神さびゆかむ 行幸処
(訳)
神である天皇がお治めになっているこの国には、温泉はたくさんあるけれども、
その中でも 島と山の立派な国であると 険しくそそり立つ
伊予の高嶺の、射狭庭の岡にお立ちになって、
歌の想を練り、詞の想を練られた、出で湯の上の林を見ると、
臣の木も絶えることなく生い茂っている。鳴く鳥の声も昔のまま。
遠い末の世まで、ますます神々しく続いていくだろう、この行幸のあった場所は。
◆三津浜
松山市駅に戻ってから、郊外電車に乗って(注:1Dayパスは使えません)、かつて秋山兄弟や子規が旅立った松山の海の玄関口・三津浜へ。可愛らしい駅舎から、港に向かう狭い路地には、お好み焼きやさんが点在(
三津浜焼きというそうです)。水軍が使っていた辻井戸、昔ながらの古い町並みが、ここかしこに残っていて、のんびりと散策が楽しめます。
◆三津の渡し
三津の渡しは、その起源が応仁の乱の頃(15世紀半ば)と伝えられる歴史ある河口の渡し舟。今も現役で、「松山市道」として、年中無休・料金無料で、三津の町と対岸の港山を結んでいます。
◆三津浜港 きせんのりば
三津の渡しの先に、三津浜港があります。海底が浅く、大きな汽船は入港できなかったため、港と沖に停泊している汽船との間を「はしけ」という小船が行き来して、物資や人を運んでいたそうです。秋山兄弟、子規たちも、ここから「はしけ」に乗って、旅立ちました。
港には、「きせんのりば」という石碑が今も残り、当時の面影を伝えています。その傍らに、旅立つ前の寂しさを詠った子規の句碑が建っています。
十一人 一人になりて 秋の暮
古くから松山の要所として栄えたこの三津港が、万葉集に歌われた『熱田津」(にぎたつ)の場所である・・・とする説もあり、この古い港町には、郵便局に、小学校に、神社に・・・と、その万葉歌碑が建てられています。
◆熱田津の万葉歌碑
古三津の郵便局の前にあった額田王の万葉歌碑です。
原文)
熟田津尓 船乗世武登 月待者
潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
読み)
熟田津に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
訳)
熟田津で 船出をしようと
月の出を待っていると
潮の具合もよくなった
者ども さあ 今こそ漕ぎ出そう
熟田津があった場所については、諸説があり、三津、和気、堀江、御幸山、それに西条等々。伊予の人々の間では、古くから熱田津論争が繰り広げらていたようです。
こちらは、お城の北側の御幸山。山の麓の護国神社にも、額田王のこの万葉歌碑があるそうです。額田王はこれだけ歌碑が作られてどんな気分なんでしょう。
◆三津厳島神社
この三津浜にも、秋山好古ゆかりの碑があります。三津厳島神社の境内にある「日露戦役表忠碑」です。石碑には、秋山好古の書で「表忠碑」とあり、その横に「陸軍大将 秋山好古」と刻まれています。