北越戊辰戦争を指揮した長岡藩総督・河井継之助は、左膝の戦傷が悪化し、会津領内に入ったものの、会津若松城下に辿り着くことなく、42歳の生涯を終えました。遺体は、只見川の河原で荼毘に付され、戦後になってから、従僕の松蔵によって、故郷の長岡に埋葬されました。
◆栄涼寺
継之助が埋葬されたのは、長岡にある栄涼寺です。JR「長岡」駅から、線路沿いを徒歩15分北に向かった線路脇にあります。
ここは、長岡藩主・牧野家の菩提寺で、寺の屋根の紋瓦は、牧野家の「三つ葉柏」になっています。
墓地の一段高い一角には、長岡藩の歴代藩主の墓があります。
墓地の一番奥に、河井家代々の墓があり、ここに継之助が埋葬されています。墓石の裏には、継之助の戒名「忠良院殿賢道義了居士」の文字が刻まれています。
指揮官を失った長岡藩は、奮戦の末、降伏。町は焼き尽くされ、領民からも多くの戦死者を出しました。お家断絶は免れましたが、禄高は7万4000石から、2万4000石に減らされ、人々は飢餓と貧困に苦しみ、「賊軍」と蔑まれる日々を歩むことになります。継之助については、長岡の英雄だと褒め称える人がいる一方、長岡城下を戦争に巻き込み、多くの戦死者を出した張本人だと恨みに思う人も少なくなく、栄涼寺の継之助の墓は、何度も倒されたり、荒らされたりしたそうです。のどかな湖畔で、住民の人たちに静かに守られている只見の墓とは、佇まいが異なります。
◆長興寺
長興寺は、長岡藩主・牧野公に三河時代から仕えた稲垣家が興した寺です。代々当主が平助を名乗る家柄で、幕末も稲垣平助は、長岡藩の筆頭家老でした。
寺の敷地内には、山本帯力など、多くの長岡藩士達の墓所があります。
墓地の奥に、稲垣平助の墓があります。北越戊辰戦争の際、稲垣平助は、勤皇恭順説を唱えて孤立。戦争が始まると出奔し、長岡城が落城すると投降して、藩主の助命を嘆願するなど、藩の再興に奔走しました。しかしながら、藩命に背いて出奔した不忠の家臣として、誹謗・中傷されることが多く、余生は、蚕糸農家と、旅籠の主人として過ごしました。
◆『武士の娘』文学碑
稲垣平助の六女で、結婚のため渡米した杉本鉞子は、夫の死後、アメリカで生計を立てるため、日本文化を紹介する自叙伝風の小説『武士の娘』を発表しています。作品の中では、戊辰戦争後、家老だった父が捕らわれて江戸送りになる時の様子にも触れ、稲垣家の人々が生きた武士たる者の姿についても描いています。信濃川の堤防沿いには、『武士の娘』の文学碑があります。
鉞子が、少女時代に体験した武家社会の暮らしや、雪深い長岡の風景などについて綴ったこの作品は、アメリカでベストセラーとなり、その後、各国語に翻訳され、日本語にも翻訳されました。
文学碑には、少女の頃に信濃川の土手で若草を摘んだ思い出を綴った一説が、刻まれています。この場所が文学碑の設置に選ばれた理由がわかるような気がしました。
文学碑のすぐ近くには、アメリカの国花ハナミズキの記念植樹があります。日本文化を伝えた鉞子の功績を讃え、日米友好親善の証として、駐日米国大使夫人のジョーン・モンデールさんが植樹したものだそうです。
◆米百俵の碑
北越戊辰戦争後、焼け野原となった長岡の町を、亡き継之助に代わって立ち直らせたのが、継之助の幼馴染の小林虎三郎です。
虎三郎は、「教育こそ人材を育て、国やまちの繁栄の基となる」と、牧野家の分家である三根山藩から贈られた米百俵を売却し、その資金を、国漢学校に注ぎ込み、長岡の近代教育の基礎を築きました。国漢学校跡地には、虎三郎の精神を今に伝える石碑が建てられています。