西軍に長岡城を攻め落とされ、北へ北へと退却した長岡藩総督・河井継之助は、加茂本陣で体勢を整えると、長岡城の奪還に動きます。
◆八丁沖古戦場
のどかな水田が広がるこの一帯は、幕末戊辰の頃は、南北5km東西3kmに渡る大沼沢地でした。中央部が底なし沼になっていたことから、渡航不能とされ、長岡城の天然の要塞の役目を果たしていました。西軍の防備も手薄だったことから、継之助は、この八丁沖を秘かに渡って城下に迫る奇襲作戦を計画します。
継之助率いる決死隊は、600余名。八丁沖を知り抜いている鬼頭熊次郎を先導に、一列縦隊で、青竹で足場を確めながら行軍。西軍に見つかる事無く、八丁沖南端の富島に集結すると、長岡城を目指して、一気に攻め込み、長岡城の奪還を果たします。
八丁沖を突破した長岡藩兵たちが上陸した富島付近は、公園に整備されています。
公園には、八丁沖古戦場の石碑、解説碑が建てられ、当時の様子を今に伝えています。
継之助が八丁沖奇襲作戦の時に実際に使用したとされる「手洗い鉢」もありました。
◆日光社
八丁沖作戦の陰の立役者が、先導役を務めた鬼頭熊次郎です。八丁沖古戦場跡地のすぐ近くにある日光社の境内には、熊次郎の活躍を讃える石碑が、ポツンとあります。周りに何の説明板もなく、なんとも寂しい。
長岡城を奪還したものの、継之助は、左膝を撃ち抜かれ負傷。総指揮官の負傷は、士気の低下を招き、勢いを取り戻した西軍によって長岡城は再度落城することになります。